一昨日、東京本郷で、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加していまいりました。
この会には、早めに自宅兼事務所を出、そう遠くない場所にある、光太郎智恵子にからむ施設を訪れてから参加することにしています。一昨年は太平洋画会での智恵子の師・中村不折を紹介する台東区立書道博物館さん、昨年は、光太郎彫刻「黒田清輝胸像」が出迎えてくれる東京国立博物館黒田記念館さん。
今年は光太郎と同時代の彫刻家・朝倉文夫の旧居を改装して作られた、台東区立朝倉彫塑館さんに足を運びました。
朝倉は光太郎と同じ明治16年(1883)、大分県の生まれ。やはり東京美術学校彫刻科出身(学年はずれていますが)です。国指定の重要文化財「墓守」や、たくさん作った猫の彫刻で有名です。
留学の経験はなく、長沼守敬などから続く穏健な作風を継承し、光太郎や荻原守衛などのロダニズムとは一線を画しています。彫刻家として独り立ちしてからは、文展などのアカデミズム系を活躍の場としていました。そのため、光太郎はその作を余り高く評価していません。新聞等に発表した文展などの観覧記では、酷評を与えています。
当方、朝倉の作品をまとめて観るのは初めてでしたが、これはこれで美術史上、重要な位置を占めるものだと思いました。こうしたアカデミズム系の流れがあるから、光太郎や守衛の彫刻の特異性が際立つわけで、光太郎や守衛を飛沫を上げて迸る奔流、激流とすれば、朝倉はとうとうと流れる穏やかな大河、といった印象を持ちました。
建物自体も国の有形文化財に登録されています。昭和10年(1935)に完成したそうですが、アトリエ部分のおそろしく高い天井、茶室まで構えた純和風の居住空間、4階にあたる屋上に造られた庭園など、興味深く拝見しました。同じ区域と言っていい光太郎のアトリエが、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したのが、返す返すも残念です。
残念、と言えば、同館には光太郎の代表作の一つ、ブロンズの「手」―それも大正期に鋳造され、台座の木彫部分は光太郎が彫ったもの―が収蔵されているのですが、展示されていなかったことです。昨年、武蔵野美術大学美術館さんで開催された「近代日本彫刻展」で、現物は見ていますが。
さて、朝倉彫塑館を後に、本郷までぶらぶら歩き、北川先生を囲む新年会に出席いたしました。
その後、地下鉄で銀座に出ました。次なる目的地は、東銀座の「いわて銀河プラザ」さん。岩手県のアンテナショップです。
過日、このブログでご紹介した、「高村光太郎記念館をたずねて」という記事の載った花巻市発行の情報誌『花日和』をゲットするのが目的で、ちゃんと置いてありました。
ところで、意外と思える程に多くのお客さんで賑わっていました。東日本大震災からの復興支援にもつながりますので、ありがたいことです。当方も愚妻の好物・ゆべしと、帰省している息子の好物の100%林檎ジュースを購入しました。驚くほど安い価格でした。だから繁盛しているのか、と納得しました。
皆様も是非足をお運び下さい。
【折々の歌と句・光太郎】
倦めば楽(がく)さむれば匠(たくみ)ぬればうた老(おい)はわが世の道になきもの
明治35年(1902) 光太郎20歳
今日は成人の日です。当方の息子も新成人ですが、当方の住む市では昨日、成人式が行われました。
というわけで、光太郎20歳の歌。
「匠」=彫刻、「うた」=短歌や詩、「楽」は音楽だと思いますが、光太郎が神田の高折周一音楽講習所でヴァイオリンを習い始めるのはこの2年後なので、今一つ謎です。聴くのは既に好きだったということでしょうか。やることが多すぎて、自分が老いることなど考えられないという青春の日々です。
現代の新成人諸君もそうなのでしょうが、光太郎のように、何度もつまづきながらであっても、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という気概で、自分の道を切り開いていってほしいものです。