昨日は、東京本郷にて、当会顧問にして光太郎研究の第一人者・北川太一先生を囲む新年会に参加させていただきました。

主催は北川先生が高校の先生をなさっていた頃の教え子の皆さんである北斗会さん、会場は東大正門前のフォーレスト本郷さん。北斗会さんが北川先生がらみの会をもたれる時は、いつもこちらです。

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おいしい料理を戴きながら、歓談のひととき。

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皆さん、戦後すぐの頃の教え子の方々ですので、70代、80代という方々が中心です。ご卒業後、数十年経ってもこうして先生のために集まられるというのが素晴らしいところです。北川先生ご自身は、今年91歳になられます。

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この会に参加すると、先生からは年賀状が届かず、この会で渡されます。

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視よ聴け喋れ さるのとし 反三猿老人

最初のご挨拶の中で、ご解説がありました。「戦前のような時代に戻りつつある今、さらに国際的にも激動の時代、「見ざる聞かざる言わざる」では駄目で、こういう時代こそ、しっかりと視て聴いて喋ることが大事なのだ」というメッセージだそうです。その通りですね。終戦時には予科練生を率いる四国の部隊の下士官で、明日をも知れぬ毎日を送られたというご経験から絞り出されるお言葉は、重みが違います。

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さらに、昨年、先生のご著書『ヒュウザン会前後―光太郎伝試稿―』『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』を刊行された文治堂書店さんのPR誌、『トンボ』をいただきました。

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巻頭言が北川先生の手になります。

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こちらは版元の文治堂さんから戴いた年賀状。近刊予告が出ています。

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夏にはまた北川先生のご著書を刊行予定だそうで、今から楽しみです。

いつまでもこの会が続くことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

門人ら我ら相寄り先生の齢(よはひ)と言へる不可思議を見る
大正12年(1923) 光太郎41歳

〔与謝野寛五十歳の賀に〕の詞書きがあります。4月1日発行の第二次『明星』第3巻第4号に掲載されました。

この年の鉄幹の誕生日である2月26日、帝国ホテルの大広間で百余名が集っての祝賀晩餐会が開催され、発起人一同を代表して光太郎が祝辞を述べました。

光太郎が鉄幹の新詩社に出入りし始めたのは明治33年(1900)。何十年経っても、ともに青年だったその頃の印象が強く、「先生の齢(よはひ)と言へる不可思議」なのでしょう。

70代、80代の北斗会の皆さんも、90歳の北川先生を前に、こういう感覚なのではないでしょうか。