12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしておりますが、今回で終わります。

今回、まずは智恵子と同じく東北出身で、智恵子と深く関わった人々をご紹介します。

服部マス(明治11年=1878~昭和23年=1948)003。智恵子の恩師です。明治30年(1897)、智恵子は故郷・安達郡油井村(現・二本松市)の油井小学校高等科に進みますが、同じ年、福島師範学校を卒業した服部も油井小学校に赴任、智恵子の唱歌の授業を担当しました。明治33年(1900)には二本松小学校に転任しましたが、翌34年(1901)、日本女子大学校が開校するや、退職して国文学部に一回生として入学しました。

マスが三年生になった時、智恵子が福島高等女学校を終えて同校普通予科に入学。これに際し、服部は進学許可を渋る智恵子の両親に説得の手紙を書いたといいます。智恵子の両親も「服部先生が通っている学校なら……」と、進学を認めました。

卒業後は北京予教女学堂、奉天女子師範学堂に勤務。帰国後、大正11年(1922)頃から中華民国留学学生援護機関日華学会理事、中国留 日女子学生寮寮監を務め、「中国人留学生の母」と称されました。


幡ナツ(旧姓・小松 明治19年=1886~昭和37年=1962)。智恵子と同じ家政学部四回生でした。二本松に隣接する本宮町出身で、卒業後すぐ、福島市明治病院長・幡英二と結婚しました。明治42年(1909)、卒業後も智恵子が住んでいた女子大学校楓寮が閉鎖となり、住む所に困っていた智恵子を、自身が下宿していた日本画家・夏目利政宅に住まわせました。

明治45年(1912)、智恵子が福島の明治病院に滞在。ここで絵を描いたそうです。智恵子はこの年、太平洋画会展覧会に油絵「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品しており、それかもしれません。明治病院さんには、ほぼその当時のまま中庭が残っていて、「高村智恵子ゆかりの中庭」として整備されています。

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左から智恵子、幡英二、ナツ。ナツが抱いているのは長男・研也です。さらにその子息の研一氏は、昨年の智恵子命日の集い、レモン忌にご参加下さいました。

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野村ハナ(旧姓・橋本 明治21年=1888~ 昭和無題43年=1968)。岩手県出身。教育学部二回生(同部は遅れて開設されたため、他学部で云うと七回生に当たります)。智恵子のすぐ下の妹、セキと同級生でしたが、セキより智恵子と仲良くなったと云うことです。帰省や上京の際には、福島の智恵子の実家に寄って泊まることがあったそうです。

同郷の、「銭形平次」シリーズ作者で、音楽評論家でもあった野村胡堂と一大ラブロマンスを経て結婚しました。その際に智恵子がハナの、金田一京助が胡堂の介添えを務めました。胡堂は絵の才能もあり、智恵子がそれを担当するようになる前、女子大学校名物の「文芸会」(文化祭的な)の演劇の背景画を頼まれて描いたそうです。それが智恵子の役目となり、「彼氏の仕事を奪ってしまったわね」と、智恵子とハナは笑いあったとのこと。

また、血のつながりはないそうですが、花巻の宮澤家と遠縁で、赤ん坊の頃の賢治をだっこしたこともあるそうです。


長沼セキ(明治21年=1888~昭和50年頃=1975頃)。智恵子の004すぐ下の妹で、野村ハナと同じく教育学部二回生でした。明治43年(1910)に卒業、大正4年(1915)、児童学研究 の名目で渡米します。その間も郷里に帰らず、東京にいましたが、何をして生活していたのか不明でした。しかし、徐々にわかってきました。

まず、明治45年(1912)7月の、東京高等女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の卒業生名簿にセキの名を見つけました。日本女子大学校を終えたあと、入学し直したようです。

また、同じ年には博文館から発行されていた少女雑誌『少女世界』に少女小説を寄稿しています。同じ雑誌の別の号には、智恵子の絵も掲載されています。

さらに、前後しますが、明治43年(1910)、日本女子大学校の同窓会である桜楓会編集部会報『桜楓会通信』の編輯員に任命、という記録も見つけました。

大正2年(1913)、智恵子の福島高等女学校時代の親友・上野ヤス の婚家(静岡・沼津)で、漱石門下の小宮豊隆(妻子あり)の子を出産。渡米は日本に居づらくなってのことだったと思われます。彼の地で日本人移民と結婚、二子をもうけ、昭和50年(1975)頃歿したそうです。

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セキと野村ハナが一緒に写った写真もありました。中央がセキ、右が野村ハナです。

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宮崎千代(生没年不明)。家政学部一回生。山形米沢出身。弟の省吾は光太郎も参加したヒユウザン会(のちフユウザン会)に所属した画家でした。同じ東北、ということで智恵子と親しくなり、大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席しています。智恵子から千代宛の書簡5通が現存しており、貴重な資料です(智恵子書簡は70通たらずしか見つかっていません)。


その他、東北出身ではありませんし、これまでにご紹介して005きた『青鞜』や桜楓会本部ともほとんど関係ない、しかし智恵子と関わった女子大学校出身者をざっと紹介します。

永野初枝 家政学部三回生
 明治42年(1909)、楓寮解散後、一時期、智恵子を自宅に下宿させる。右の画像は『花紅葉』第7号、明治42年(1909)より。

秋広あさ子 中退のため卒業生名簿に記載なし 学部等不明
 明治36年(1903)当時、女子大学校自敬寮で智恵子と同室。智恵子の女子大時代のエピソードの大半は、秋広の回想による。ゼームス坂病院入院前の智恵子を見舞う。昭和21年(1946)、義子と孫が花巻郊外太田村の光太郎を訪問。光太郎晩年まで文通。

旗野八重 国文学部四回生
 歴史地理学者・吉田東伍の姪。智恵子と親しかった。卒業直後、病没。

佐藤澄子 家政学部七回生
 旧姓旗野。八重の妹。在学中、松井昇の助手として勤務していた智恵子に画を教わる。大正2年(1913)、新潟の実家に智恵子を招いて共にスキーに興じた。大正5年(1916)にも智恵子は旗野家別荘に滞在(下写真)。
 のち、立川農事試験場長佐藤氏(姉も女子大学校四回生)と結婚。光太郎詩「葱」のモチーフとなる。智恵子歿後の戦時中には光太郎を援助。

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藤井勇(ゆう) 英文学部四回生
 大正元年(1912)、智恵子、セキとともに、光太郎が滞在していた千葉銚子犬吠埼へ同行。

廣瀬さき 家政学部五回生
 明治39年(1906)、文芸会の背景を描く智恵子の助手を務めた。

内田龍子
  光太郎と交流のあった真壁仁による「高村智恵子の一生」(『高村光太郎と智恵子』  草野心平編 筑摩書房 昭和34年=1959)に、在学中の智恵子と自敬寮で一緒だったとして紹介。卒業生名簿に「内田龍子」名なし。国文学部三回生・山本龍か?


この他にも情報をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。特に「うちのばあさんが智恵子さんと親しかったので、手紙や写真が残っている」などは大歓迎です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月27日

昭和4年(1929)の今日、『東京朝日新聞』読書欄に散文「ホヰツトマンの「草の葉」が出た」を発表しました。

「ホヰツトマン」はアメリカの詩人、ウォルター・ホイットマン。光太郎は大正10年(1921)、ホイットマンの『自選日記』翻訳を叢文閣から刊行するなど、彼に傾倒していました。

この年11月、長沼重隆訳のホイットマン詩集『草の葉』が刊行され、それを受けて書かれました。書き出しはホイットマンに傾倒していた光太郎らしく、「ブラボオ! と叫びたい事がある」としています。