12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回は、日本女子大学校の同窓会である桜楓会の中心にいたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と浅からぬ縁のある人物がいろいろいます。

小橋三四子(みよこ 明治16=1883~大正10031=1922)。国文学部卒、一回生です。

卒業後、桜楓会の機関誌『家庭週報』の編集に携わりました。その後もその経験を生かし、女性編集者として活躍し、『読売新聞』記者を経て、雑誌『婦人週報』を創刊します。広岡浅子の薫陶を最も強く受けた一人で、浅子の随筆集『一週一信』の編集にも携わっています。

光太郎と智恵子を結びつけるのにも一役買っています。智恵子は明治末頃、いろいろな先輩芸術家に話を聴くと云うことを繰り返していましたが、その中で、雑誌『スバル』に「我が国初の印象派宣言」とも云われる評論「緑色の太陽」を発表した光太郎にも眼をつけ、小橋に相談。小橋はさらに同じ国文学部一回生だった柳八重に話を持って行きます。八重の夫・敬助は、画家で、明治39年(1906)、アメリカ留学中に光太郎と知遇を得ていました。

そういうわけで、柳八重(旧姓・橋本 明治16=1883004~昭和47=1972)。小橋とともに『家庭週報』の編集に携わり、やはりその後も女性編集者として活躍しました。

明治44年(1911)末、小橋から頼まれた八重は、駒込林町の光雲宅に居候していた光太郎のもとに、智恵子を伴います。これが光太郎智恵子、二人の運命的な出会いでした。

その後も、夫・敬助と共に大正3年(1914)、上野精養軒で開かれた光太郎智恵子結婚披露宴に出席していますし、夫婦ぐるみでの交際が続きました。

光太郎智恵子、それぞれが八重に宛てた書簡が複数残っています。以下は結婚披露直後のもの。

拝啓 この間はお忙かしい中をおいで下さつて恐入りました それに美しいブーケ迄頂戴して本当にうれしくおもひました まだあの蘭がにほつて居ます 長沼さんはあなたにはじめて紹介されたのが知り合ひの初めなので何だか特別ニあなたにお礼を申さねばならない様な気がします 今度は結婚といふ事についていろんな事を考へました 此から少しは落ちついて製作の出来る様になればいいと思つて居ます 何れ又お目にかかつて御礼を申し上げますが取りあへず手がみにて 二十七日 高村光太郎 柳八重子様
(大正3年=1914 12月27日 光太郎から八重)

 お目出度う存じます
 どうぞ相変りませず御願ひ申上げます
 旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます その御礼をも申上げませんうちまたこの程わざわざ御光来被下重ねがさね恐れ入りました あのバタは新らしくてほんとにバタらしいにほひです ありがたう存じあげます そのうち是非御伺ひ申上様と存じて居ります 御主人様御母上様にも何卒よろしく御願ひ申上げます 先づは幾重の御礼かたがた御わびまで早々申上ました
智恵
 柳八重子様
  どうぞまた御ゆるりと御越を願ひます
(大正4年=1915 1月3日 智恵子から八重)

微笑ましいですね。


今回、市民講座の講師を仰せつかって、小橋と八重、二人についても改めて調べたところ、こんな評を見つけました。

 柳八重子、(旧橋本)(三十一)は国文科一回の出で、今は西洋画家柳氏の令閨である。在学中校内評判の美文韻文家として、其艶麗な筆は今も尚ほ母校の語り草になつてをる。
 小林(注・小橋の誤り)三四子(三十)八重子と同期同科の卒業生で、桜楓会から発刊する家庭週報に毎号掲げる論文の巧みなのは、校中に比較する者なく、前者の美文に対し後者の論文は供に双璧の噂さ専らにて、尚ほ永く人の記憶に残るであらうとのこと。
(平元兵吾著『八大学と秀才』 大正元年=1912より)005

二人が編集に携わり、さらに智恵子も詩文を寄稿している『家庭週報』についても、こんな評がありました。

 特に注意すべきは桜楓会家庭週報が単に卒業生五名の手によりて毎週発刊せられつゝあることにして、欧米の諸大学に於ては日刊をも発行し居るのに比すれば敢て珍しき事にはあらずと雖も、我帝国大学にすら学生の手になる日刊は愚か週刊すらなきに比すれば、才媛諸子の活動寔に敬服の外なし、況や其内容も整頓し、記事の明確なる等到底之が斯の如き少数女性の経営に成るものと信ずること能はざるの観あり、想ふに本邦に於て女子の経営する週報は実に之を以て嚆矢となす、
(雑誌『新日本』第四号 明治39年=1906 7月 「女子大学校と其桜楓会の活動」芙蓉子 より)

画像は『家庭週報』の広告です。

さらに井上秀(明治8年=1875~昭和38年=1963)も006外せません。

井上は、日本女子大学校第四代校長を務めました。在任期間は昭和6年(1931)~同21年(1946)です。家政学部一回生で、卒業後、欧米留学を経て明治43年(1910)から女子大学校教授を務め、桜楓会初代幹事長でもありました。

京都府立第一高女で、広岡浅子の娘・亀子(朝ドラ「あさが来た」では「千代」)と同窓。その関係で浅子に女子大学校進学を強く勧められました。入学時には既に既婚、子供もいたということです(そういう女性も特に珍しくはなかったと云うことですが)。小橋と共に浅子の薫陶を最も強く受けた一人です。

光太郎が成瀬仁蔵胸像を制作中に、アトリエを訪問していますし、昭和13年(1938)10月の智恵子葬儀に際し、女子大学校代表として参列してもいます。

智恵子の葬儀後の、光太郎から井上宛の書簡も残っています。

拝啓 先般妻智恵子死去の節は御多忙中を御会葬下され千万忝く存上候
このたびは智恵子の同期生諸姉を始め大方の御哀悼を辱うし難有事と存居候ところ中陰の期も追々すゝみ候については一々御答礼可仕筈に候へ共本人の素志もあり母校たる御校へ些少ながら金三百圓御寄附いたして一々の答礼に代へ度本来小生出頭可仕なれど略儀を以て右為替同封致候間御受納下され度奉願候
         敬具
     昭和十三年十一月三日                    高村光太郎
    日本女子大学校長 井上秀子様

光太郎との関わりは、戦後まで続いています。光太郎最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京してから、井上が光太郎に講演の依頼をし、実現しています。

 今、井上先生が僕についてエラク能書を申し上げたが、こんなに思われているとは考えなかつた。有り難いんだが。また面はゆい気もする。どうか皆さん、余り期待しないで聞いて下さい。期待しすぎると、期待はずれということがある。陰で考えるとそう悪くないが本物を見るとつまらない、こなければよかつた(笑)……こんなことになるかも知れない。

 元来、僕はしやべるのが苦手で、あまり人前ではしやべらないことにしている。それがこうしてのこのこ出て来なければならなかつたのは、亡くなつた妻の母校の校長さんをしておられた井上先生に頼みに来られたからである。井上先生に頼まれたんでは仕方がない。絶体絶命である。悪るい人がいてくれたもんだと思う。(笑)しかし考えてみればこれも縁で。機縁を尊ばなければならぬ。機縁を尊び、いたるところに種をまいてゆく。とすれば、しやべるということもまた一つの菩薩行であろう。自分も一生懸命勉強するが、人にも勉強させる。自分の勉強したところを独り占めしないで、人にも話す、自分の見出したもの、得たもの、或いは自分の苦しみや喜びを人にも訴える、これも人間の務ぢやないかと思う。僕は矢張り話す機会を与えて下さつた井上先生に感謝しなければならない。
(「炉辺雑感」 昭和28年=1953 6月1日発行『女性教養』第173号。「本稿は昭和二十八年二月二十八日 中山文化研究所婦人文化講座の講演筆記であります。」の前書きがある。)


もう一人、仁科節。智恵子の一学年下にあた007 (2)る国文学部五回生で、小橋や八重ののちに『家庭週報』編輯に携わりました。光太郎による成瀬仁蔵胸像制作に際し、実質的に光太郎とのパイプ役を務めたようです。その関係で駒込林町アトリエを訪問し、その様子は『家庭週報』に3回ほどレポートされています。

そのうち、昭和4年(1929)6月の第990号には、駒込林町のアトリエの写真も掲載されています。現存するアトリエ外観の写真は少なく、貴重なカットです。

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繰り返しご紹介していますが、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」。日本女子大学校設立に尽力し、開校後も学生や卒業生と交流が深かった広岡浅子が主人公です。今回ご紹介した小橋三四子や井上秀は、特に浅子と縁の深かった人物。おそらく「あさが来た」にも登場するでしょう。期待しています。


次回は最終回として、智恵子と縁のあった東北出身の同校卒業生をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月26日

平成21年(2009)の今日、地上波テレビ朝日系で「はぐれ刑事純情派 最終回スペシャル さよなら安浦刑事!命を懸けた最後の大捜査!  福島二本松、岳温泉に消えた、“母と呼べない息子”の連続殺人トリック! 人情刑事・安浦、衝撃の過去が明らかに!」が放映されました。

昭和63年(1988)に連ドラとして放映が始まり、平成17年(2005)で一旦終了。「必殺シリーズ」で伝説の殺し屋・中村主水を演じた故・藤田まことさんが、一転してヒューマニティーあふれる役どころで新境地を開きました。その後、スペシャル版として4本が制作された人気ドラマの最終回でした。

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悪人たちの罠に嵌り、殺人事件の容疑者にされた実は無実の青年――安浦刑事と旧知の仲――が、故郷の二本松に潜伏したという設定で、二本松でのロケが敢行されました。

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智恵子生家も登場。

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山手中央署の刑事さんたち、何故か観光スポットのみで聞き込み捜査(笑)。

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二本松市や岳温泉観光協会さんのバックアップなので(笑)。

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クライマックスは岳温泉に近い岳ダムでした。