12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。
今回は、雑誌『青鞜』に関わった日本女子大学校出身者について。
まずは平塚らいてう(明治19年=1886 ~ 昭和46年
=1971)。家政学部三回生で、智恵子と同じ生年ですが、早生まれのため、智恵子の一級上になります。しかし、卒業後の明治41年(1908)、漱石門下の作家・森田草平と心中未遂事件を起こし、学校の名誉に傷をつけたと云うことで、卒業生名簿から除籍されてしまいました。処分が解除になり、ふたたび卒業生として認められたのは没後の平成4年(1992)のことでした。

高級官僚だったらいてうの父は、これにより、らいてうがまともな結婚をすることをあきらめたといいます。その結婚資金としてためていた資金を使って、明治44年(1911)に創刊されたのが『青鞜』。らいてうはその表紙絵を智恵子に依頼しました。女子大学校時代の絵画の才能を知っていましたし、テニスを通じ、智恵子の芯の強さ的な部分を認めていたのでしょう。
追記 智恵子の手になる『青鞜』創刊号の表紙絵についてはこちら。
追記 智恵子の手になる『青鞜』創刊号の表紙絵についてはこちら。
もう一人、作家の田村俊子(明治17年=1884 ~ 昭
和20年=1945)。国文学部一回生ですが、病気中退のため、卒業生名簿には名前がありません。やはりらいてうの呼びかけで、『青鞜』創刊号に寄稿しています。その時点で既に俊子と同じく幸田露伴門下の田村松魚と結婚しており、田村姓でした。

『青鞜』メンバーの中では、特に智恵子と仲が良く、どこまで真実か解りませんが、一種の同性愛的な部分もあったことが、俊子の作品に描かれています(「二三日」、「魔」、「わからない手紙」、「悪寒」(以上明45年・大正元年=1912)、「女作者」(大正2年=1913))など。
また、明治45年(1912)には、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で、智恵子との二人展「あねさまとうちわ絵」を開催しています。俊子が千代紙であねさま人形、智恵子がうちわ絵を出品しました。

その後、光太郎と結婚した智恵子と、夫婦ぐるみの交
際が続きますが、やがて松魚と別れ、大正7年(1918)、新しい恋人・鈴木悦を追ってカナダに渡ります。その際には光太郎智恵子は、横浜港まで見送りに行っています。鈴木が亡くなって、昭和11年(1936)に帰国。その際には智恵子はもはや心の病でゼームス坂病院にいました。歴史に「たら・れば」は禁物ですが、もっとも仲の良かった俊子が日本にずっといたら、智恵子の心の病ももしかしたら回避できたかも知れません。

智恵子と俊子は、『青鞜』メンバーの中ではちょっと浮いた存在だったようです。智恵子は俊子とはよく行動を共にしましたが、らいてうをはじめとする『青鞜』中心メンバーとは、少し距離を置いていました。智恵子が中心メンバーとの大きな集まりに顔を出したのは、確認できている限り2回のみです。
初めは明治45年(1912)、大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会。写真が残っています。

智恵子がこういう会合に顔を出すのは珍しい、ということで、中央に据えられたのではなかろうかと思われます。右から二人目がらいてうです。
『青鞜』第2巻第2号(明治45年=1912 2月 この号も智恵子の表紙絵)に、新年会のレポートが掲載されています。智恵子に関わる部分のみ抜粋します。
正月二十一日と云ふ日曜日大森藤ヶ崎の富士川で新年会をした。在京社員全体とは行かなかつたが、松村とし、武市綾、小磯とし、長沼智恵、荒木郁、林千歳、宮城房、らいてう、白雨等が午前から初大師の人の波を押し分けて、集つたので楽しい、盛んな会合だつた。
会合は翌日の午前二時頃迄続いた。女の世界、全世界の女は皆幸福な者としか思へなかつた。
会合は翌日の午前二時頃迄続いた。女の世界、全世界の女は皆幸福な者としか思へなかつた。
長沼氏と荒木氏とらいてう氏と林氏とはいつまでも泡立つコツプに未練を残して席を立たない。「ええゝゝ、さうです、さうです、それです」と我が意を得た人の話を幽に胸息をはづませながら、受け取るは朦朧体の長沼氏で生れて以来青空を見た事がないと云つた様子に、顔を火鉢より低く垂れて、ぐつたりと川土左宜敷、夢のやうに話しては皆んなを悩した。
「あたし鏡花が大好き、エヽ夏目さんも好きよ。けれどもまだ他に今の若手で二人好きな人があるの、それはおしくてとても云へないわ、」前に延した首は三間も先きの方でかう云つた。撫で肩すらりつと着流した羽織を後にさばいて、品を作つて、こゝみがたに顎をつき出して居る。時々白い歯を見せて笑ふ鏡花式の、はなやかな方は宮城氏で、長沼氏と相隣り、一つの火鉢に睦じそうだつた。
「あたし鏡花が大好き、エヽ夏目さんも好きよ。けれどもまだ他に今の若手で二人好きな人があるの、それはおしくてとても云へないわ、」前に延した首は三間も先きの方でかう云つた。撫で肩すらりつと着流した羽織を後にさばいて、品を作つて、こゝみがたに顎をつき出して居る。時々白い歯を見せて笑ふ鏡花式の、はなやかな方は宮城氏で、長沼氏と相隣り、一つの火鉢に睦じそうだつた。
そろそろ隠芸がはじまる。皮切はいつも荒木氏だ。「三味線がなければ」とか何とか難題を持ち出すのは長沼氏だ。
三人丈は雨の止むと共に遅く帰つた。
らいてうは狸寝だらう、何と話しかけても返事をしない。ふと昼間写真をとつた時、「どうすれば美人らしく見えるでせう」と長沼氏を捕へて真顔に訊いて居たのを思出して可笑しくなると共に、脱がさうとする荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が浮んだ。
100年以上前ですが、現代の女子会のようですね(笑)。
この時書かれた寄せ書きも、この号に掲載されています。智恵子の筆跡もあるはずなのですが、不鮮明なので解りません。

2回目はぐっと時代が下って、昭和4年(1929)。「旧青鞜同人のあつまり」ということで、新宿中村屋で行われました。
『朝日新聞』に予告と報告の2回、記事が出、報告の方には写真も載りました。しかし、智恵子は野上弥生子が壁になって、顔の右側の輪郭しか解りません。2年後には心の病が顕在化、悲劇的な末路へと進む運命を暗示しているように見える、というと考えすぎでしょうか。




その他の初期『青鞜』メンバー中の日本女子大学校出身者には、次のような人々がいました。家政学部四回生だった智恵子と近い年次の人々のみ載せました。
発起人
保持研子 国文学部四回生 途中退学 のち復学し八回生として卒業
保持研子 国文学部四回生 途中退学 のち復学し八回生として卒業
社員
井上民 国文学部一回生
大村かよ 国文学部一回生
山本龍 国文学部三回生
龍野ともえ 英文学部三回生
上田君 国文学部四回生
佐久間トキ 国文学部四回生
茅野雅子 国文学部四回生 (歌人)
阿久根俊 国文学部五回生
松村とし 英文学部五回生
武市綾子 英文学部六回生 など
井上民 国文学部一回生
大村かよ 国文学部一回生
山本龍 国文学部三回生
龍野ともえ 英文学部三回生
上田君 国文学部四回生
佐久間トキ 国文学部四回生
茅野雅子 国文学部四回生 (歌人)
阿久根俊 国文学部五回生
松村とし 英文学部五回生
武市綾子 英文学部六回生 など
木村政 補助団員 家政三
潘しん 寄付者 家政三
竹井たかの 賛助員 英文三
平塚孝 寄付者 国文一
潘しん 寄付者 家政三
竹井たかの 賛助員 英文三
平塚孝 寄付者 国文一
(らいてう姉・病気中退)
上代たの 賛助員 英文七
上代たの 賛助員 英文七
(後の女子大学校第6代校長)
鈴村不二 賛助員 英文七 他
鈴村不二 賛助員 英文七 他
初期『青鞜』の活動は、世間から受け入れられていました。「新しい女」と揶揄されたり、罵詈雑言を浴びせられたりするのは、後に女子美術学校卒の尾竹紅吉が加わり、「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」を起こしてからのことです。
こうした『青鞜』の活動も、成瀬仁蔵による個性的な教育の影響が見て取れるような気がします。
次回は、女子大学校同窓会の桜楓会で活動していたメンバーについて。やはり光太郎智恵子と深く関わった人々がいます。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月25日
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、クリスマスケーキを野生動物に食べられてしまいました。
翌日の日記の一節に、こうあります。
昨夜旧小屋のケーキを野獣がくふ。犬か。
熊は冬眠に入っているはずです。狐か狸かもしれません。先だって、花巻を訪れた際、花巻高村光太郎記念館近くにお住まいの花巻高村光太郎記念会高橋事務局長が、「今朝は犬の散歩中に狐と狸の両方に遭遇した」とおっしゃっていました。
この年6月には、明確な印税制を採らなかった龍星閣(『智恵子抄』版元)が罪滅ぼし的に費用を出して、山小屋に新棟が増築され、寝泊まりはそちらでして居ました。新棟は現在は50㍍ほど移築され、倉庫として使っています。