12/20(日)に、智恵子の故郷・二本松で当方が講師として行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。

今回から、日本女子大学校における、智恵子をとりまく人々。

まずは創立者にして初代校長の成瀬仁蔵。003

安政5年(1858)、周防国(現・山口市)に長州藩下級武士の子として出生、明治初期から教育者の道を歩み始めました。2度のアメリカ留学を果たし、その経験から女子教育の必要性を痛感、大阪梅花女学校や新潟女学校で教鞭を執り、やがて女子大学校設立の構想を持ちます。そして広岡浅子や渋沢栄一、大隈重信等の援助を取り付け、明治34年(1901)に日本女子大学校を設立します。

以後、校長として個性的な学校運営を推進するかたわら、自らも教壇に立ち、全校生徒対象の「実践倫理」という講義を受け持ちました。

歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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校長時代の成瀬は、教育者としての厳格な一面も当然ありましたが、決して融通の利かない石頭ではなく、生徒たちに愛される存在でもあったようです。

「偉人は子供である」とは何人(なんびと)でもがいふ校長の総評である。
 一事をばかり熱心に考へていらつしやるので、その余のことは、ぬかつて失敗ばつかり。つひこの間も、欧州からお帰りの渋沢男爵を横浜まで迎へに行つたのに、上着を着て居なかつたさうである。男爵にお目にかゝつて挨拶をしようとして外套を脱ぎにかゝると、はじめて心づいた。
 上着を着て居ないのである。チヨツキの上に外套をかけたまま来てゐる。
 先生の大勢の子供たちが、この事をきいてもう笑ひころげてしまつた。
(『目白生活』 滝本種子 大正3年=1914)

大正期の生徒の回想です。特筆すべきは、こういう失敗をやらかしたことよりも、それを隠さずに生徒に語っているということ。生徒に対する成瀬のスタンスが見て取れます。

さて、智恵子。当然、『実践倫理』の講義は受けていますし、それ以外にも成瀬との個人的な関わりがあります。卒業後の明治43年(1910)11月に、旅行先の群馬赤城山から成瀬に送った絵葉書が現存しています。保存状態が良くなく、□の部分は判読不能です。

 葉鬱せし木も今は骨露はなる冬の赤城 牛は郷に帰り山は眠りに入て風のみ独り暴威を振ひ候 昨今の山籠りはあまり識れる□□□□□なく候へども余り□故にのみ止まりて少しばかりスタデーはし居り申候 御健祥に渡何よりと嬉しく存上まつり候 来月に入りての上帰京し伺申上たく候 御健康を切に願上げ候 早々

すでにご紹介したとおり、智恵子は卒業後、松井昇の助手として母校の教壇に立っていましたし、同窓会である桜楓会の業務にも携わっていました。そこで、在学中よりも卒業後の方が、成瀬との関わりは深まっていたのかも知れません。


続いて、広岡浅子。現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロインです。

浅子は嘉永2年(1849)の生まれ。世代的には光太郎智恵子の一世代前で、嘉永5年(1852)生まれの光太郎の父・光雲より年上です。朝ドラを見ていると、波瑠さん演じる若々しい姿しか思い浮かびませんが。

浅子は成瀬の女子教育推進に共鳴、いろいろと援助を行います。このあたりもやがて朝ドラの重要な展開として描かれるでしょう。ちなみに成瀬役は瀬戸康史さん、役名は「成澤泉」だそうです。「あさが来た」では、実名で登場する人物(五代友厚、土方歳三、大久保利通、福沢諭吉ら)と、仮名になっている人物とが入り乱れています。「泉」は成瀬の雅号「泉山」に由来するのでしょう。

ちなみに「あさが来た」、9月の第一回放送は、日本女子大学校(これも仮名で「日の出女子大学校」)の第一回入学式のシーンから始まりました。これが明治34年(1901)、浅子は数え53歳です。

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その後も浅子はたびたび同校を訪れ、生徒や卒業生と交流していたということで、明治36年(1903)入学の智恵子との関わりもあるのでは、と、いろいろ調べてみました。

はたしてありました。

こちらは智恵子卒業時(明治40年=1907)の集合写真です。

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左の方に智恵子、右下に成瀬仁蔵校長、そして浅子。同じ写真に写っていました。こちらは『財団医療法人明治病院百年のあゆみ』という書籍から採らせていただきました。福島市に現在も続く同院の創設者、幡英二の妻・ナツ(中央の赤丸)が、智恵子と同級生で、しかも二本松に隣接する本宮出身ということで、仲が良かったそうです。明治病院についてはこちら

そして、智恵子卒業後の明治43年(1910)、同窓会である桜楓会総会中の分科会・社会部大会。ここで智恵子が自らの絵画修行について発表したことは昨日触れましたが、その智恵子の発表の前に浅子が発言していました。

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こんな縁もあったのです。

また、浅子は御殿場にあった別荘を開放し、女性たちの啓発セミナーのような活動も行っていました。ここには女子大学校卒以外でも、市川房枝や村岡花子なども参加していたとのこと。残念ながら智恵子が参加したという記録は見つかっていませんが可能性はゼロではありません。

さらに、これは以前にもご紹介しましたが、光太郎がやはり日本女子大学校卒の小橋三四子(こちらも後ほどご紹介します)に宛てた書簡に、浅子の名が出て来るものがあります。浅子が歿した大正8年(1919、成瀬と同じ年でした)のもの。

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拝啓
今日新聞で広岡浅子刀自のなくなられた事を知り非常に感動を受けました
先達て頂戴した一週一信をよんではじめて刀自の真生活を知つたばかりの時此の訃音に接して残り惜しい心に堪へません
あなたの御心もお察し出来る気がいたします
しかし刀自の魂は此から後どの位実際的に人〻を導くか知れない事と信じます
どうも黙つてゐられない気がして此の手がみを書きました
刀自に対する尊敬と吊意とをおくみ取り下さい
一月十六日
            高村光太郎
 小橋三四子様


文面にある「一週一信」というのは、前年12月に刊行された浅子の随筆集です。

浅子自身に送った書簡類は確認できていませんが、もしかすると光太郎、さらには智恵子から浅子宛のものが残っているかも知れません。期待したいところです。

成瀬仁蔵・広岡浅子と因縁浅からぬ光太郎智恵子夫妻。というわけで、朝ドラにもぜひ登場させてほしいものです。


明日は同じく日本女子大学校での智恵子をとりまく人々のうち、雑誌『青鞜』を巡る人々をご紹介します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月24日

昭和49年(1974)の今日、銀座吉井画廊で開催されていた「白樺派とその周辺――書画展」が閉幕しました。

光太郎の作品も並びました。日本近代文学館所蔵の、美術史家・奥平英雄に贈った書画帖「有機無機帖」です。最晩年の昭和29年(1954)、奥平に贈られました。