12/20(日)に、智恵子の故郷、福島県二本松市で行った市民講座「智恵子講座’15 高村智恵子に影響を与えた人々 成瀬仁蔵と日本女子大学校」の内容を換骨奪胎してお届けしております。
明治36年(1903)、福島高等女学校を卒業した智恵子は、日本女子大学校普通予科に入学します。翌年には四回生として家政学部に進みました。この四回生というのは、第四回入学生という意味です。
単なる良妻賢母教育にとどまらなかった同校で学ぶことによって、智恵子の才能が開花します。
まず絵画への傾倒。
一昨日のブログでご紹介した松井昇が同校で絵画の指導に当たっており、必修科目ではありませんでしたが、智恵子はそれを選択しました。福島高等女学校時代にも絵の才能は見せていましたが、そのころ取り組んでいたのは岩絵の具を使った日本画。おそらくここではじめて油絵の具に出会います。
智恵子の絵の才能は周囲も認め、女子大学校名物の一つ、秋季文芸会(文化祭的な)では、生徒による演劇の背景画を任されました。夜遅くまで講堂の地下でそれに取り組んでいた智恵子の姿が記憶されています。卒業後も智恵子は母校に残り、松井の助手として勤務、さらに太平洋画会に入会して、洋画家への道を目指します。『三つの泉』、『家庭』といった同校の刊行物や、雑誌『青鞜』などを、智恵子の描いた画が飾りました。
さらにテニス。家政学部で智恵子の一年上にいた平塚らいてうの回想が残っています。
どちらが先にテニスをやりだしたか、それは忘れましたが、とにかくこのひとの打ち込む球は、まつたく見かけによらない、はげしい、強い球で、ネットすれすれにとんでくるので悩まされました。あんな内気なひと――まるで骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひとのどこからあれほどの力がでるものか、それがわたくしには不思議なのでした。
(『高村光太郎と智恵子』 筑摩書房 昭和34年=1959収録、「高村智恵子さんの印象」より)
下記は平成22年(2010)に朝日新聞出版さんから刊行された『週刊マンガ日本史44 平塚らいてう』です。
智恵子、完全に悪役顔です(笑)。
らいてうは「どちらが先にやりだしたか、それは忘れましたが」と書いていますが、智恵子は福島高等女学校時代には既にテニスに取り組んでいました。
明治36年(1903)、智恵子が普通予科に入学した年の『日本女子大学校学報』第四号に、この年の運動会の様子がレポートされています。正式種目ではなく、オープニングアクトの「番外」で、テニスがプログラムに入っており、附属高等女学校生を含む15組が対戦したとあります。その選手の中に普通予科の「長沼ならゑ」という名が見えます。
ところが、後の卒業生名簿を見ると、この年に普通予科だった智恵子と同級の生徒の中には、「長沼」という苗字は智恵子しか居ませんし、「ならゑ」という生徒も居ません。これはもしかすると「長沼ちゑ」を「長沼ならゑ」と書き誤ったのかな、などとも思えます。しかし、中退者も多かったので、卒業生名簿にはなくても「長沼ならゑ」という生徒が存在していたのかも知れません。また、智恵子の一学年下に「中西ならゑ」という卒業生がおり、そのあたりと混同していた可能性、または「中西」は結婚後の性で旧姓・長沼の可能性もあります。ただ、一つ下では計算が合わないのですが……。智恵子が入学早々に選手として活躍していたとすれば、素晴らしいですね。
さらに女子大名物の自転車も、智恵子は早々と乗りこなしたとのこと。
智恵子と寮の同室だったという秋広あさの回想。
その頃自転車は全く珍しい乗り物でしたが、寮にも一台備えられ、時間決めで練習させられました。皆は“珍しいけど厄介なこと”と云い乍らも誰が最初に乗れるか興味を持つておりました処、他ならぬ智恵子様が一番乗りしたのでした。それと申しますのも、雨の日には雨天練習場に乗り入れて練習したからだつたのでしよう。
(『高村光太郎資料第六集』 文治堂書店 昭和52年=1977収録「智恵子様のこと」より)
他にも秋広の回想は多方面にわたります。たたむ必要のない「無精袴」を考案したり、寮内で堂々と禁止されている間食をしたり、秋広が事情があって中退する時には涙を流して見送ってくれたり……。
卒業後も智恵子は同窓会である「桜楓会」の仕事にも携わっています。機関誌『家庭』や『家庭週報』に、絵や詩文を寄せていますし、同窓会大会の分科会で絵画修行について発表したという記録も見つけました。
当時の桜楓会の組織は「家庭部」「教育部」「社会部」の三つに分かれ、智恵子は「社会部」に所属しました。「社会部」の中に「出版部」があり、その関係で『家庭』や『家庭週報』と関わったと推測されます。
そして明治43年(1910)4月5日から7日にかけて行われた桜楓会第七回総会の2日目、分科会である社会部大会で、智恵子が絵画修行について発表したことが、同会の年刊誌『花紅葉』第8号に記録されていました。これは従来の智恵子年譜には漏れていた事実です。ちなみにその前年にも社会部大会に出席しています。
智恵子が光太郎と巡り会うのは、翌明治44年(1911)。今回講師を務めさせていただき、いろいろ調べる中で、光太郎と知り合う前の智恵子のきらめく青春時代が、改めて実感できました。
日本女子大学校で智恵子が関わった人々も、綺羅星の如し。明日以降、それらの人々をご紹介していきます。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月23日
昭和6年(1931)の今日、春陽堂から『明治大正文学全集 第三十六巻 詩篇』が刊行されました。
光太郎作品9篇が掲載されました。こうしたアンソロジーの類は多いのですが、光太郎自身が作品の選択、詩句の校訂に関わっていると確認できているものは少なく、これはその一つです。