一昨日、智恵子の故郷・二本松での市民講座「智恵子講座’15」の講師を仰せつかり、講義をして参りました。今日から数回、その内容を換骨奪胎してお届けします。
講座全体のテーマが「高村智恵子に影響を与えた人々」ということで、10月の第1回は智恵子の里レモン会会長の渡辺秀雄氏による「長沼家の家族とふるさと二本松」、先月行われた第2回は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」、そして午前中の第3回が、太平洋美術会会員の坂本富江さんによる「松井昇と太平洋画会研究所」。
さらに当方が「成瀬仁蔵と日本女子大学校」。明治36年(1903)から同40年(1907)まで智恵子が学び、そして卒業後も少なからず関わった日本女子大学校を軸に、そこで出会った人々をご紹介しました。
こちらは女子大学校時代の智恵子です。
こんな写真もあります。中央が智恵子ですね。
まずは大学校そのものについて。
こちらは昔の絵葉書です。
日本女子大学校は、明治34年(1901)、女子高等教育の第一人者、成瀬仁蔵によって、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針を掲げ、創立されました。成瀬は明治初期から教育者として活動、大阪や新潟でも高等女学校の教壇に立ったりしていました。
ところが、高等女学校を終えた女子のさらなる行き場が少ないことを憂い、女子大学校設立を画策したわけです。そのために政財界にも働きかけます。そこで、現在NHKさんで放映中の朝ドラ「あさが来た」のヒロイン、広岡浅子(朝ドラでは「白岡あさ」)もからんできます。広岡浅子に関してはまた後ほど。
アメリカ留学の経験もある成瀬は、実に幅広い視野を持ち、女子大学校では様々な取り組みを行います。こちらも古絵葉書ですが、校内に茶室や、農園、牧場なども設けられました。
また、運動会や文芸会(文化祭的な)は、評判を呼びます。智恵子が入学した明治36年(1903)の運動会は、5,000人を超える観客が集まったとのこと。
さらに、自転車。運動会のプログラムにも自転車が取り入れられていましたし、運動会以外でも自転車に乗ることが奨励されていたそうです。
こちらは文芸会の会誌『三つの泉』。明治40年(1907)に刊行されたもので、表紙は智恵子の手になります。国立国会図書館さんのインターネット公開デジタルデータで閲覧が可能です。この中で、智恵子はカットも担当しています。
こうした運動会や文芸会、その他の部分でも、生徒の自主性が尊重せられ、通り一遍の良妻賢母教育ではなく、自分で考え、行動する女子がどんどん育っていきました。
そうした部分は、寮生活にも関わります。
こうした寮が最盛期には30近くあり、それぞれの寮で「お主婦さま」というリーダーの下に、整理係、風儀係、体育係、文芸係、園芸係、衛生係など、さまざまな役割を設け、交替でそれぞれの任を担って、自治を行っていました。
さらに卒業後も、同窓会である桜楓会という組織がさまざまな事業を行っていました。上記の農園や牧場、そして銀行業務的なことにまで取り組んでいたといいいます。それから年刊(『花紅葉』)、月刊(『家庭』)、週刊(『家庭週報』)などの出版。これには智恵子もかなり関わっています。
そういう意味では、当時としては、男子校と比べてもかなり画期的な実践が行われていました。そうした中で、たくさんの才媛が輩出され、智恵子もまたその才能を開花させて行きます。
そのあたりは次回に。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月22日
昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野のアトリエに、青森の地方紙『東奥日報』の記者が十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作の取材に来ました。
この取材の様子は、翌年元日の『東奥日報』で大きく報じられました。光太郎の長い談話も掲載されており、いずれ当方編集の「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集、雑誌『高村光太郎研究』に連載中)でご紹介します。