昨日は、智恵子の故郷、福島二本松の福島県男女共生センターに行っておりました。
「智恵子講座’15」。地元で智恵子の顕彰活動に取り組む智恵子のまち夢くらぶさんの主催で、今年度は「高村智恵子に影響を与えた人々」というテーマで行ってきて、昨日が最終回でした。
10月の第1回は智恵子の里レモン会会長の渡辺秀雄氏による「長沼家の家族とふるさと二本松」、先月行われた第2回は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」でした。
昨日は第3回と第4回をぶっ続けで行い、午前中が第3回で、太平洋美術会会員の坂本富江さんによる「松井昇と太平洋画会研究所」。本来、こちらが第4回の予定でしたが、坂本さんのお母様が亡くなり、昨日はお通夜だというので、急遽、午前と午後が入れ替わりました。
地元誌の取材を受ける坂本さん(右)。
熊谷会長のあいさつ。
坂本さんのご講義に依れば、松井昇は安政元年(1854)の生まれ。川上冬崖の画塾に学んだ画家で、我が国西洋画家のはしりの一人です。明治34年(1901)~45年(1912)にかけ、智恵子の母校・日本女子大学校で西洋画の指導に当たっています。明治37年(1904)、同校普通予科に入学した智恵子は、同40年(1907)に卒業するまでの間、何年生かで松井の授業を受けています。西洋画の授業は必修科目ではなかったにもかかわらず、智恵子はこの授業に熱心に取り組み、後の人生に大きな影響を受けています。そして卒業後は母校で松井の助手として勤務もしました(期間が不明なのですが)。
坂本さんのご講義、松井の絵や、松井が日本女子大学校の教壇に立つ前に勤務していた東京帝大の植物園(現・小石川植物園)の写真などを使いながら、わかりやすくご説明なさいました。植物園に勤務していた頃に植物標本を描いた松井の作品は、写真と見まがう出来で、写真技術が進んでいなかったこの時代、その代わりを務めていたのだと思われます。そうした細密描写を智恵子も教えられたのでは、と感じました。
さらに智恵子はおそらく松井の紹介で、太平洋画会に入会、頭角を現しました。現存する智恵子の作品からは、松井から叩き込まれたであろう細密な描写力が息づいているようです。
そして、太平洋画会で指導を受けたのが、中村不折。智恵子のエメラルドグリーンの多用を戒めたことで有名です。中村は絵に対する自説を曲げない部分があって、それが長所でもあり、短所でもあって、同時代の美術評論家から「余りに異説者を軽蔑し過ぐるのは感心しない」などと評されていたそうです。これは初めて知りました。
ご講義は、太平洋画会時代の智恵子のエピソード、さらに現在の太平洋美術会さん、それに隣接する光太郎の母校・第一日暮里小学校さんなどにも言及されました。お母様のお通夜当日にもかかわらず、気丈に、そしていつも通り明るく講義をなさったお姿には感心いたしました。
昼食をはさんで、午後は当方の講義「成瀬仁蔵と日本女子大学校」。そちらは明日から詳述します。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月21日
明治41年(1908)の今日、『東京美術学校校友会月報』に「英国に於る応用彫刻に就て」を発表しました。
欧米留学中の光太郎は、父・光雲の奔走で農商務省の海外実業訓練生に任命されました。もともと私費留学、現地で生活費を工面という苦学生でしたが、これにより、レポートの提出が義務づけられましたが、代わりに毎月60円ずつ支給されることとなりました。そのレポートの第一報(未完)です。