先週土・日の東北行、最終目的地の佐藤邸編です。

一昨日も書きましたが、光太郎は昭和20年(1945)の9月10日~10月17日の一ヶ月余り、花巻桜町の佐藤邸離れで暮らしました。元々昭和20年(1945)に、東京を焼け出されて宮澤賢治の実家に疎開してきたものの、再び空襲の被害に遭ってのことです。当時の当主で賢治の主治医だった佐藤隆房は、光太郎を花巻に招いた張本人の一人でした。

現在も隆房の子息・進氏(花巻高村記念会理事長)夫妻がお住まいですが、ここを来年5月14日(土)、一般公開するということで、その下見。以前から奥様には「機会があったらお寄り下さい」とおっしゃっていただいておりました。

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こちらが元の母屋の正面玄関。昭和初期の建築だそうです。現在は新たに母屋を造られ、そちらで主に生活されているとのこと。とにかく敷地が広大なので、それも可能なのでしょう。

裏手に2階建ての離れがあり、光太郎はこの2階を借りて住んでいました。当方、20年以上前に敷地外から望見したことがありますが、間近で拝見、ましてや内部に入れていただくのは初めてでした。

屋外をぐるりと一周するとこんな感じです。

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すぐ近くを豊沢川が流れ、当時はせせらぎの音がよく聞こえたそうです。そこで、光太郎はこの建物を「潺湲楼(せんかんろう)」と命名しました。「潺湲(せんかん)」とは、水がさらさらと流れるさまです。

さて、いよいよ内部へ。

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正面玄関から入り、渡り廊下的な処を通って離れへ。さらに狭い階段を上がります。すると、四畳半が二間。両側が大きな窓のある廊下になっているのと、ごちゃごちゃ物が置いていないのとで、広く感じられます。

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座卓も当時のもの。それから押し入れには光太郎が使っていたという火鉢もありました。

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下記はここで暮らしていた時か、後に太田村に移ってからのものかよく分かりませんが、この部屋での光太郎です。

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窓からの眺め。

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北側に豊沢川。

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南は母屋の屋根。日当たりも良さそうです。

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このような快適な環境での暮らしを棄て、光太郎は7年間の山小屋暮らしに入ります。他人の家に厄介になるという気苦労は確かにあったでしょうが、ここで暮らし続けていれば、何不自由ない生活だったのに、です。そこに光太郎という人間の生きざまが端的に表されているような気がしました。


その後、母屋の洋間でお茶を戴きました。昔の映画にでも出て来そうなお部屋です。

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ここで撮られた光太郎の写真もあります。左が佐藤隆房です。

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窓外には百日紅の大木。花をつけるとさぞ見事でしょう。

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さらに辞去する前にはお庭も案内して下さいました。こちらは昭和初期、賢治が取り寄せたというバラの子孫。よくぞ残っているものだと感心しました。

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最初に書きましたが、こちらを来年5月14日(土)、一般公開するそうです。詳細が決まりましたらまたお知らせいたします。


というわけで、秋田横手から始まった全ての行程を終え、帰途に就きました。一昨日ご紹介した光太郎も訪れた伊藤屋さん、昨日レポートした光太郎がらみの二つのお寺、そして佐藤邸潺湲楼など、思いがけず訪問することが出来、非常にありがたい限りでした。花巻高村光太郎記念会・高橋事務局長、佐藤様に改めて御礼申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月17日

昭和15年(1940)の今日、大政翼賛会本部で開催された臨時中央協力会議で「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて提案、発言をしました。

下記は会議を前に語った光太郎の談話の冒頭部分です。『読売新聞』に掲載されました。

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記事にも名が上げられている大政翼賛会文化部長だった岸田国士が、光太郎を委員として推薦しました。

この時点では、「今回限り」と言っていた光太郎ですが、翌年の第1回(6月)、第2回(12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日)の中央協力会議にも出席しました。