昨日、NHK総合さんで、先週ご紹介した「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~宮城県女川町 勝又愛梨さん」の放映がありました。
津波で甚大な被害を受けた女川町の高校生・勝又愛梨さんが取り上げられました。
勝又さんも、津波でひいおじいさん、ひいおばあさんを失ったとのこと。
その思いから、また同じような災害が起こった時に、恩師や同世代の若者達と共に、「女川1000年後のいのちを守る会」を結成、人々を救うための活動に取り組みます。
それにとどまらず、「いのちの教科書」というプロジェクト。
それをもとにして、中学校などでゲストティーチャーとして出張授業。
頭が下がります。
こうした出張授業、地元だけでなく、先月には千葉県でも行われました。
東日本大震災:命守る方法考えて 体験基に津波対策語る 女川中卒業生が千葉の中学生と対話集会
『毎日新聞』 2015年11月29日 宮城版/千葉版
東日本大震災で被災した女川町で、津波到達地点を知らせる石碑を設置する活動を続けている町立女川中の卒業生12人が28日、千葉県船橋市の市立湊中(太田保校長、生徒数382人)を訪れ、「1000年後の命を守るための対話集会」を開いた。高校2年になった卒業生たちは、被災体験を基に中学生と命の大切さについて話し合い、「身近な命を守る方法を考え続けてほしい」と訴えた。【金森崇之】
女川町は震災で住宅の9割が被災し、人口の約8%に当たる872人が死亡・行方不明となった。震災直後に女川中に入学した卒業生たちは「私たちと同じ思いをしてほしくない」と、授業で独自の津波対策案を検討。家族や友人を亡くした経験を語り合いながら、住民同士が助け合える絆づくり▽広い避難路と高台のまちづくり▽震災を記録に残す??という三つの対策案をまとめた。
「1000年後の命を守る」を合言葉に、町内21カ所に津波最高到達点を知らせる石碑を作ることも計画。1000万円の寄付を集め、これまでに9基を完成させた。中学卒業後は、教訓を伝えるための「いのちの教科書」作りも続けている。
対話集会は日本防災士会首都圏支部連絡協議会が企画し、湊中の全校生徒や地域住民約500人が参加した。女川中の卒業生は三つの対策案や活動をスライドを使いながら報告し、「悲しみは今もそばにあるけれど、前を向き続けて生きていく」などと決意を語った。
湊中を含む船橋市立4、浦安市立1の計5中学の生徒34人とのディスカッションもあった。女川の卒業生が被災体験を伝えると、中学生も祖父母を亡くした経験やいじめ自殺の問題を踏まえて命の尊さについて思いを語り、「感謝の気持ちが命を大切にすることにつながる」「あいさつなどの小さい積み重ねで絆ができる」と意見を出し合った。
女川中の卒業生で、曽祖父母やいとこ2人が行方不明のままの県立石巻北高校2年、勝又愛梨さん(16)は「当たり前にいた人たちが急にいなくなってしまうことを、私は小学6年で知った。中学生たちは話を真剣に聞いてくれた。命を守るにはどうしたらいいか考えて行動に移してくれると思う」と笑顔。湊中1年、村山翼空(たすく)君(13)は「話し合うことで震災のことが近くに感じられた。同じ悲劇が少しでも減るように、今日の話を帰って家族に伝えたい」と話した。
被災地 女川の高校生と対話交流 命と防災を考える機会
『東京新聞』 2015年11月29日 千葉版
東日本大震災で町人口の一割近い命が奪われた宮城県女川(おながわ)町の高校生が二十八日、船橋市の湊中学校を訪れ、船橋市と浦安市の中学生と、命や防災をテーマに話し合った。高校生は、日常の何げない行動が、大きな災害時に命を守るのに役立つことがあると指摘。中学生は四年半前の震災を思い出しながら、あらためて命の尊さを考える機会になったようだ。 (服部利崇)
訪れたのは、震災直後の四月に女川第一中(当時)に入学、現在は高校二年生になった十二人。中学一年の社会の授業の取り組みをきっかけに、高校生になった今も活動を続ける「女川1000年後の命を守る会」のメンバーでもある。
生徒らは、津波被害を最小限にする三つの対策案を提案した。その一環で、災害から命を守る「いのちの教科書」づくり、募金を集めて津波到達地点より高い場所に建てる「いのちの石碑」などユニークな取り組みを続ける。この活動で、同会は社会貢献支援財団から本年度の社会貢献者として表彰される。三十日の表彰式で上京するのに合わせ、日本防災士会首都圏支部連絡協議会が旗振り役となり対話交流が実現した。
高校生との対話に、船橋、浦安両市の五つの中学校から三十四人が参加した。六グループに分かれ、高校生の司会で「命の尊さ」を感じた体験や、千年後の命を守るために今できることを話し合った。
高校生は「地域行事に極力参加している。いざという時に助け合える雰囲気づくりに役立つから」と、日常の行動が命を守ることにつながるとアドバイス。触発された中学生は「スマホをしながら自転車に乗る友達を注意する」「毎日、感謝の言葉を口に出す」「地域の人にあいさつし、顔見知りになる」などと次々にアイデアを出していった。
参加した湊中三年の石野彩さん(15)は「命を守ることは、身近な行動から始められる、という高校生の意見に共感した。明日から、できることをしたい」と話していた。
『東京新聞』さんの記事にある「社会貢献支援財団から本年度の社会貢献者として表彰」に関して調べたところ、今年度、「社会貢献の功績」ということで表彰を受けた全国47件の個人、団体の中に「女川1000年後のいのちを守る会」さんも含まれていました。
そちらによると、「いのちの教科書」のプロジェクトは、日本だけでなく、アジアの国々をも視野に入れているそうです。確かに平成16年(2004)には、スマトラ沖地震による大津波で、東南アジアの国々も大きな被害を受けています。そういう意味では、日本の経験を他国に伝えることも大切なことです。ただただ頭が下がります。
泉下の光太郎も、若い世代のこうしたがんばりには、目を細めているのではないかと思います。
さて、NHK総合さんの「あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~宮城県女川町 勝又愛梨さん」の再放送があります。
あの日 わたしは~証言記録 東日本大震災~「宮城県女川町 勝又愛梨さん」
NHK総合東京 2015年12月14日(月) 23時20分~23時25分
東日本大震災に遭遇した人々の証言。宮城県女川町の高校生、勝又愛梨さんは、大好きだったそう祖父母を奪った津波の怖さを後世に伝えるために災害の教材づくりに取り組んでいる。
ぜひご覧下さい。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月8日
大正13年(1924)の今日、詩人の山村暮鳥が歿しました。
半年程前にも書きましたが、地方紙「いはらき」に載ったという光太郎の文章。
山村暮鳥さんとは数年前上野池の端の電車の中で初めに会ひ、又それが最後の事になつてしまひました。
あんなに人なつこかつたこの詩人に其後会ふ機会をつくらなかつた事を残念に思つてゐます。常に遠くから親密の情は捧げてゐたくせに。
晩年の彼の詩の深さにはうたれます。
この文章が載った「いはらき」が未見です。したがって、掲載年月日も大正13年(1924)12月という以外は不明。昭和10年(1935)刊行の『暮鳥研究』第一輯に転載されたということで、筑摩書房『高村光太郎全集』では、そちらを底本としています。
「いはらき」は水戸の茨城県立図書館にマイクロフィルムが所蔵されているのですが、そちらは欠号が多く、この文章は発見できませんでした。
情報をお持ちの方は、こちらまでご教示いただければ幸いです。