一昨日、訃報の出た元女優・原節子さんがらみの記事が、福島の地元紙『福島民友』さんに掲載されました。
原節子さんの二本松ロケの写真発見 智恵子記念館が保管
昭和を代表する女優で、亡くなった原節子さんが、二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子を演じた東宝映画「智恵子抄」のロケで同市を訪れ、その際に撮られた写真が智恵子の生家近くに立つ智恵子記念館の収蔵庫に保管されていたことが26日、分かった。同市文化課の職員が発見した。
写真は人目に触れる機会があまりなかったとみられ、アルバムのような形で整理されていた。この中にはロケを報じる新聞記事の切り抜きなども収められていた。
映画は東宝が制作、1957(昭和32)年に公開された。当時の新聞記事によると、二本松ロケは同年3月に行われたとみられ、かつて酒造業を営んでいた智恵子の生家や県立霞ケ城公園でロケをしたとあった。
写真は本丸天守台に立つ原さんと夫の光太郎役を演じた山村聰さんの姿を撮影。そのほか智恵子の生家でのロケの様子を撮った写真もあった。
智恵子と光太郎を顕彰する「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一代表(65)は「私は当時7歳で記憶はないが、また聞きですごい人だかりだったと聞いている。智恵子の生家の通りをはさんで向かいの家も、2階まで人がびっしりだったようだ」と話した。
東宝映画「智恵子抄」では、2回にわたり二本松でのシーンが使われています。それぞれ、旧安達町の智恵子生家、二本松霞ヶ城でロケが行われています。合間には安達太良山や阿武隈川の風景も。
まず、智恵子生家。1回目は、史実でいうと大正9年(1920)。光太郎が初めて智恵子の実家、長沼家を訪れて歓待されたというシーンです。
2回目は、やはり史実では昭和4年(1929)、破産直後の長沼家を智恵子が一人で訪れるシーンです。
没落後という設定で、映画が制作された昭和32年(1957)当時の智恵子生家がそのまま使われました。上記の大正9年(1920)時点の生家は、看板や板などを貼り付け、往時の姿を復元して撮ったのでしょう。かなり手が込んでいます。
ただし、内部は別の家屋、もしくはセットで撮られたようで、よく見ると階段の位置等が実際とは違っていました。
続いて、霞ヶ城。
まずは大正9年(1920)。幸福だった光太郎智恵子。お約束の「樹下の二人」の「あれが阿多多良山/あの光るのが阿武隈川」が使われました。
こちらは宣伝用のスチール写真。
このカットは、ポスターにも使われています。そのポスターは当方の書斎に飾ってあります。
さらに昭和4年(1929)、傷心の智恵子が一人霞ヶ城を訪れるという設定です。
ついでですのでご紹介しますが、こちらは九十九里浜での撮影の合間に撮られたスナップ。左端に写っているのは、智恵子の実妹・セツです。歴史的にも貴重です。
九十九里では昭和8年(1933)、実際に智恵子が療養していた辺りでのロケが行われ、その頃はセツも存命でした。ちなみにセツは、10年後に撮られた松竹制作の岩下志麻・丹波哲郎版の「智恵子抄」のパンフレットにも写真が掲載されています。
どこかでまとめて展示していただけるとありがたいところです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月28日
昭和2年(1927)の今日、帝国大学仏教青年会で催された大調和美術講演会で講演を行いました。