昨日は智恵子の故郷・二本松に行っておりました。
まずは二本松霞ヶ城に近い、福島県男女共生センターで開催された「智恵子講座’15」の第2回にお邪魔しました。
講座全体は「高村智恵子に影響を与えた人達」というテーマで行っており、今回の講師は福島県中国交流史学会長、元福島女子高教頭の小島喜一氏。題は「油井小学校と福島高等女学校の先生達」。
油井小学校時代の智恵子の恩師の中には、後の智恵子の一生に大きく影響を与えた人物がいます。
一人は服部マス。智恵子の担任ではありませんでしたが、唱歌の授業を担当していました。智恵子より8歳上の明治11年(1878)生まれです。智恵子在学中の明治33年(1900)、他校に転任、翌年には退職し、この年創立された日本女子大学校国文学部に第一回生として入学しました。当時の日本女子大学校には、服部のように既に職業を持っていた婦人が仕事を辞めて入学したケースも珍しくはなかったそうです。
上記は後に同校同窓会である桜楓会から刊行された雑誌に載った卒業生名簿です。ちなみに服部の3人前にある「橋本八重」は画家の柳敬助と結婚し、さらに後に載せた小橋三四子ともども、光太郎智恵子を結びつける役割を果たします。
後を追うように、明治36年(1903)には、智恵子が同校に入学。それに際しては、はじめ智恵子の進学を渋った智恵子の両親に、服部から説得の手紙がもたらされたということですし、「服部先生がいる学校だから」ということで両親も進学を認めた経緯があるようです。
のちに服部は大陸に渡り、北京予教女学堂、奉天女子師範学堂に勤務。帰国後、大正11年(1922)頃から中華民国留学学生援護機関日華学会理事、中国留日女子学生寮寮監を務め、「中国人留学生の母」と称されました。
もう一人、智恵子の妹・ミツの担任だった小笠原トクヨ。明治13年(1880)の生まれ。小笠原も服部同様、油井小学校での勤務を経て、こちらは東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)に進み、後に二階堂体操塾(現・東京女子体育大学)を創設します。智恵子は小笠原に非常になついており、師範学校への進学に際しては、智恵子の実家の長沼家から援助があったらしいとのことです。
こうした先達の存在が、後の智恵子の日本女子大学校進学に影響を与えたことはまちがいありません。
その他、智恵子在学当時の油井小学校や福島高等女学校の教員の氏名など、当方も知らなかった資料がレジュメに記載されており、ありがたいかぎりでした。
さらに、こちらも当方は全く存じませんでしたが、二本松出身・在住だった俳人で自由民権運動家の加藤哲壽という人物が光太郎と親交があり、大正9年(1920)に光太郎が智恵子の実家に行く途上で加藤の家に立ち寄ったり、加藤が光太郎の木彫「蟬」を購入したりしたといったエピソードも紹介されました(小島氏は加藤と親交があり、実際に手に取ってみたとのこと)ただし、加藤家にあった資料類は昭和30年代、行政の無理解で散逸してしまったそうです。
小島氏は昭和3年(1928)のお生まれだそうですが、途中、短い休憩は入ったものの、2時間以上、立ちっぱなしでのご講義。そのバイタリティーには脱帽でした。
第3回の講義は当方が講師を仰せつかっていますが、パソコンとプロジェクタを使ってスライドショーを投影しながら進めますので(と言い訳しつつ)、座ってやらせていただきます(笑)。
講座修了後、「第61回 二本松の菊人形」に足を運びました。そちらは明日、レポートいたします。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月16日
大正15年(1926)の今日、詩人の宮崎丈二に訳詩の原稿を送附しました。
原詩はアメリカの詩人、ホイットマンの書いた「栗色の顔をした野の若者よ」。翌昭和2年(1927)1月の雑誌『太陽花』第2巻第1号に掲載されました。
『太陽花』は静岡で刊行されていた地方詩誌です。たびたび光太郎も寄稿していましたが、現存部数が非常に少ないようで、「栗色の顔をした野の若者よ」光太郎訳がどういう内容なのか、不明です。
だいぶ以前にも書きましたが、掲載誌は横浜・港の見える丘公園にある神奈川近代文学館さんに所蔵されています。しかし、「栗色の顔をした野の若者よ」の載ったページだけ破り取られており、読めませんでした。
情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。