「智恵子抄」がらみでいくつか情報をお届けします。

まずは智恵子の故郷、二本松から、地元紙『福島民友』さんの記事。先月もご紹介した「ほんとの空体操」関連です。 

「ほんとの空体操」で介護予防 二本松で健康体操教室

 二本松市は、元気な高齢者を増や000し介護予防につなげようと、「市民の歌」に合わせた健康体操「ほんとの空体操」をつくった。2日、同市の岩代総合文化ホールで普及のための健康体操教室を開いた。
 同体操は、高齢者が運動するきっかけにしてもらおうと、県健康運動指導士会理事などを務める同市の吉井雅彦さん(快フィットネス研究所長)が考えた。
 普段動かさない筋肉をほぐすストレッチの動きが基本で、同市出身の紙絵作家高村智恵子が愛した「ほんとの空」を見上げる動きも取り入れられている。
 市高齢福祉課の高橋久美子さんは「若い人にも肩こり予防などで活用してほしい」と話している。
2015年11月02日


「ほんとの空」といえば、二本松では「ほんとの空」を守るPR隊「二本松少年隊」の皆さんがご活躍中です。『広報にほんまつ』の今月号では、第二期生募集の記事が載っていました。 

「二本松少年隊」二期生募集

~今年1月に結成し、市内外のイベントで活躍中の「二本松少年隊」。その二期生を募集します~

二本松少年隊とは
 二本松の素晴らしさを全国に発信するため、観光イベントなどで殺陣を中心としたパフォーマンスを披露しています。

少年隊の活動
・イベント活動は、土・日・祝日が中心となります。
・基本的にボランティアでの活動となります。※交通費などは支給します。
・練習は、市内の会場で週3回行います。時間は18:00~20:30です。
※ 毎週月・水・土曜日に勤労者福祉会館(向原)で練習していますので、興味のある方は練習風景を見学にお越しください。なお、練習日程が変更になる場合もありますので、事前にお問い合わせください。

募集人員 5人程度

応募資格 ・年齢は高校生~30歳代まで
・男性、女性は問いません。
・市外在住の方でも構いません(二本松市に通える方に限ります)。
・1年以上活動できることが条件です。

応募方法
・ 所定の応募用紙に記入の上、観光課(二本松おもてなし隊)まで持参、郵便またはメールで応募
・ 応募用紙は、市役所や各支所などで配布、市ウェブサイトからもダウンロードできます。

募集期限 12月1日(火) ※消印は11月30日まで有効です。

オーディション  12月6日(日)午前10時から、簡単な動きやセリフのオーディションを行います。詳しくは応募者へ直接連絡します。

◎問い合わせ…観光課観光立市係☎(55)5095

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市のサイトにも詳細情報が掲載されています。応募資格のある方、ぜひどうぞ。当方は年令制限に引っかかって応募できません(笑)。


「ほんとの空」といえば、元々は「智恵子抄」に収められた「あどけない話」からの引用です。「智恵子抄」ということになると、昭和37年(1962)、文化放送さんからオンエアされたラジオドラマ「智恵子抄」で、智恵子役を務められた加藤治子さんの訃報が出ました。 

加藤治子さん死去 「寺内貫太郎一家」母親役

 テレビドラマ「寺内貫太郎一家」な001どの母親役で知られた俳優の加藤治子(かとう・はるこ)さんが2日、心不全のため死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営まれた。
 東京・赤坂生まれ。松竹少女歌劇学校卒業。39年東宝映画に入社し、御舟京子の芸名で映画「花つみ日記」でデビュー。41年に東宝を離れ、劇作家の加藤道夫や芥川比呂志らの「新演劇研究会」結成に参加。加藤作「十一月の夜」で新劇俳優として初舞台を踏んだ。
 46年に加藤と結婚したが53年に死別。49年「麦の会」として文学座に合流した。58年文学座の俳優高橋昌也と再婚し、63年福田恒存、高橋、芥川と劇団「雲」を結成するが、73年に高橋と離婚し、75年には退団した。
 以後、フリーとしてテレビを中心に活躍し、上品で色気のあるお母さん役でお茶の間の人気者になった。脚本家の故・向田邦子と親交が深く、「寺内貫太郎一家」(TBS系、74年)、「阿修羅のごとく」(NHK、79~80年)など多くの向田作品に出演した。
 舞台でも味わい深い存在感をみせ、99年「三婆」の武市タキ役で菊田一夫演劇賞、01年新国立劇場「こんにちは、母さん」の母親役で、紀伊国屋演劇賞などを受賞。02年に勲四等宝冠章を受章した。
 04年には宮崎駿監督「ハウルの動く城」に声優として出演。3年ほど前から体調を崩し、昨年から自宅療養をしていたという。
(『朝日新聞』)

元ご主人の故・高橋昌也さんも、舞台で光太郎役を演じられていました。高橋さんも昨年ご逝去されています。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月6日

昭和28年(1953)の今日、上野の東京国立博物館で開催されていた「書道名品展」を観覧しました。

先日、NHKさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」でも触れられていましたが、晩年の光太郎は書に強い関心を抱いていました。

当時、同館に勤務し、光太郎と深い交流のあった美術史家の奥平英雄は次のように回想しています。

 帰京の翌二十八年の秋、東京国立博物館で大がかりな書道名品展があったとき、光太郎もこれを見にきたが、この展観には大きな感銘をうけたと見え、その後もいろいろとこれが話題にのぼった。博物館で発行している『博物館ニュース』に、この展覧会にちなんで光太郎の原稿を載せたいというので私はそのお使いにいったが、そのとき書いてくれたのが「書の深淵」という文章で、これが戦後はじめて書いた書論であった。わずか原稿用紙三枚ばかりの短いものだけれども、簡潔ななかに彼ならではと思われるような、光彩を放った名文であった。