現在発売中の『週刊ポスト』さんの11月13日号。16ページにわたり、「【大特集】三行広告 その奥深き世界を歩く」という記事が組まれています。
「三行広告」とは、主にスポーツ新聞などに掲載されるちょっと怪しい求人情報などの広告を指すことが多いのですが、ここではもう少し範囲を広げ、尋ね人や葬儀告知、純粋な広告なども扱っています。
後半8ページは「【実録】本当にあった三行広告のドラマ」という見出しです。松下幸之助が考えたまだベンチャー企業だった時代のナショナルの広告、グリコ森永事件で犯人との取引連絡に使われたダミーの広告、『毎日新聞』さんに実際に載ったゴルゴ13への「仕事」の依頼広告――13年式G型トラクター買いたし――(実は宣伝)などに交じって、光太郎の出した広告も取り上げられています。
左上には中野のアトリエで「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中の光太郎。
こちらが光太郎の部分です。
問題の広告は、一昨年、このブログの【今日は何の日・光太郎】で取り上げました。大正3年(1914)の『時事新報』に載った、彫刻のモデルを募集する広告(右の画像)です。「三行じゃなくて、二行広告じゃないか」という突っ込みはやめましょう(笑)。
記事では昭和30年(1955)に雑誌『新潮』に載ったエッセイ「モデルいろいろ」からの引用もなされています。ただ、発表年を「1970年」としているのは大間違いですが……。また、見出しに「女性たちが殺到した」とあるのも大げさかな、という気がします。
広告ではありませんが、大正13年(1924)の8月、『東京朝日新聞』には、光太郎のこんな文章が載りました。アンケートに近いものですが、「もでる」とひらがな表記になっていたりするので、談話筆記かも知れません。
探してゐるもの
私のやうな貧乏な無風流漢には趣味ある探しものなど、めつたにありません。唯年中探し求めてゐるのはよいもでるです。職業的の人を好まないため、却々(なかなか)むづかしい事です。
自分のいいと思つた人を誰でも頼める特権があつたらなあと時々おもひます。
さらに同じ年の11月には、アンサー報告的な文章も載りました。「探してゐるもの 探し当てた報告」というコーナーです。
いゝモデル
此間私が職業的ならぬモデルを常に探してゐるといふ事を申して以来、夫(それ)に就いて私に同情を寄せてくれる人の多いのを喜んでゐます。首ぐらゐならば随分無理な時間の都合をして来てくれる友人も出来、又未知の青年や婦人から全身のモデルになつてもいゝといふ意を通ぜられてもゐます。大変勇気を得ましたが今後も絶えず探してゆかうと思つてゐます。
モデルの需要と供給に関しては、光太郎に限らず多くの美術家が頭を抱えていたようで、光太郎の盟友・岸田劉生なども、知人を片っ端からモデルにしたがり、「岸田の首狩り」と揶揄されたり、顰蹙を買ったりしたそうです。
この辺りを書きはじめると、きりがないので、最後に光太郎の詩でオチをつけます。大正14年(1925)の作です。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。
首が欲しい、
てこでも動かないすわりのいい首、
どこからともなく春蘭のにほふ首、
ふうわりと手に持てる首、
銀盤にのせて朝の食卓に献ずる首、
まるでちがつた疾風(はやて)の首、
夢をはらんで理知に研がれた古典の首、
電気に充ちて静まり返つた嵐の前の首、
メフヰストをなやます美女の首、
だがやつばり男の首、
ただぽつかりと置ける首、
それでゐて底の知れない無垢の首、
合口をふところにして
又今日も市井のざわめきにまぎれこまう。
てこでも動かないすわりのいい首、
どこからともなく春蘭のにほふ首、
ふうわりと手に持てる首、
銀盤にのせて朝の食卓に献ずる首、
まるでちがつた疾風(はやて)の首、
夢をはらんで理知に研がれた古典の首、
電気に充ちて静まり返つた嵐の前の首、
メフヰストをなやます美女の首、
だがやつばり男の首、
ただぽつかりと置ける首、
それでゐて底の知れない無垢の首、
合口をふところにして
又今日も市井のざわめきにまぎれこまう。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月3日
昭和21年(1946)の今日、花巻町羅須地人協会跡に立つ、光太郎が碑文を揮毫した宮澤賢治「雨ニモマケズ」詩碑の誤りを訂正、追刻しました。
花巻高村光太郎記念会会長の佐藤進氏著『賢治の花園―花巻共立病院をめぐる光太郎・隆房―』(地方公論社 平成5年=1993)から。
昭和二十一年十月二十三日付の手紙で高村先生は父に詩碑の加筆について、次のように書き送ってくれました。
以前よりの懸案ではありましたが、賢治さんの詩碑に脱字があったり誤字があったりしているので、これを改めたいとお願いしたところ、高村先生が詩碑に直接加筆され追刻することになり、その心ぐみでそろそろ寒くなった東北の十一月の一日に山から出かけ、私の家に来ました。
一日おいた三日の朝です。東北の十一月、既に肌寒く、吐く息が白々と見える冴えた冷い朝でした。高村先生に清六さんと父と私とがお供をして桜の詩碑に行きました。着いてみると、先にこの賢治の詩碑を彫った石工の今藤清六さんが、先に来て、詩碑の前に板をさしわたした簡単な足場を作っておき、そのかたわらで焚火をしていました。
先生はおもむろに碑を眺め、やがて足場に上り、今、加筆をはじめようとしています。
万象静寂の中に、人も静まり気動かず、冷気肌をおおい、立ち上る煙のみがその静寂を破っているばかりです。先生は筆を取り、『松ノ』『ソノ』『行ツテ』を加筆し、『バウ』を『ボー』とわきに書き替えました。つづいて裏に父が「昭和二十一年十一月三日追刻」と書き入れました。
高村先生の父にあてた十一月六日付の葉書きは次の通りです。
賢治詩碑の誤字脱字については、以下をご参照下さい。