
孤雁と荻原守衛は、共にアメリカ留学中の明治34年(1901)に知り合い、双方の帰国後も交流が続いて、いわゆる中村屋サロンの中心メンバーとなりました。したがって、孤雁は光太郎とも交流がありました。光太郎より1歳年長です。
また、孤雁は明治43年(1910)、中村屋さんで守衛の臨終に立ち会いました。そんなわけで、昨年放映されたテレビ東京系の「美の巨人たち 荻原碌山作 女」で、孤雁が扱われました。

この番組は、作品解説の部分と、作品にまつわるミニドラマ的な部分とが交互に配される構成になっており、この回のミニドラマは守衛歿後の中村屋サロンを舞台にしていました。大浦龍宇一さん演ずる光太郎と及川聡さん扮する孤雁を進行役に、守衛の追想がなされるというものでした。



さて、中村屋サロン美術館さんに話を戻します。同館では展示室が二つあり、「特別展示」の際には2室ぶちぬきで開催、「テーマ展示」は手前の第1室のみをあて、奥の第2室は「通常展示」という構成です。先だって開催されていた「斎藤与里のまなざし」は「特別展示」、今回は「テーマ展示」でした。

孤雁の作品は計14点。全て碌山美術館さんの所蔵でした。当方、年に1度は「碌山忌」のため碌山美術館さんを訪れていますが、同館でも常に孤雁作品の全てを展示しているわけではないので、初めて観るものもあり、興味深く拝見しました。
しかし、物足りなさも感じました。彫刻が全て小品だということもあるかもしれません。自画像などの絵画の方には感心しましたが……。このあたり、守衛、光太郎と比較しての現代における知名度と関わるような気がしました。
帰ってから、光太郎の孤雁評を改めて調べてみました。すると、交流が深かったにもかかわらず、かなり手厳しい見方もしていました。
戸張孤雁氏は際立つてロマンティツクだ。氏の内面的視野は常にその色を帯びてゐる。去年の文展の「力の弛んだ人」今年の「犠牲者」の如きは明白に其を語つてゐるが、「女の胴」のやうなものにも作者の見方、作者の意志の働き方に於て其の傾向を観取し得る。氏は人の顔がただ人の顔では気が済まない。その顔が或るロマンティツクな背景を持つてゐる事を好む。そして制作の動機が隠約の間に其処から起る。ロマンティツクである事自体には何の言ふべき事もない。唯其が芸術上に気質となつて動き始め、其の一種の好尚が自然に向ふ氏の眼を極限し、専ら其の気分の表現にのみ腐心してゆく様になる所に僕と相容れない点がある。戸張氏は僕の敬愛してゐる故荻原守衛氏と略同系に属すべき人でありながら、此の一点で離れてゐる。此は氏の生来か。それとも氏が暫く挿絵画家をしてゐた名残か。其の何れなるかは僕にもまだ解らない。氏の「犠牲者」が僕にもの足りなく感じさせ、十分やる可き処までやらなかつたと思はせるのは以上の様な理由があるのだらう。
(「彫刻に就て」 大正3年=1914)
ここで光太郎が「ロマンティツク」と言っているのは、言い換えれば彫刻の「物語性」でしょうか。明治末、留学前の光太郎も「物語性」あふれる彫刻を作っていました。軽業師の親方に折檻されて泣く玉乗りの少女とそれをかばう兄(「薄命児」 明治38年=1905)、経巻を投げ捨てて憤然として立つ日蓮(「獅子吼」 同35年=1902)など。


ところがロダンを知ってからの光太郎は、こういう「物語性」を極力排除し、純粋に対象の造型性を追う彫刻に転じます。
細かな部分は忘れていましたが、こうした孤雁評が頭の片隅に残っていたためか、当方も物足りなさを感じてしまいました。
今回は「テーマ展示」ですので、奥の第2室は「通常展示」。ここの目玉でもある守衛の「女」、光太郎の油彩「自画像」などが展示されています。また、特に興味深く拝見したのは布施信太郎の手になる中村屋さんの包装紙とその原画。春夏秋冬、それぞれ郷愁をそそる絵柄ですし、亡くなった母方の祖父がよく中村屋さんの月餅や「碌山」をお土産に買ってきてくれたことを思い出しました。
現在の展示は来年1月11日(月・祝)までです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月19日
昭和2年(1927)の今日、光太郎の実弟にして後に鋳金の人間国宝となる豊周の第八回帝展特選が報じられました。

上記は『朝日新聞』。文中に「夫人智恵子さん」とあるのは誤りで、豊周の妻は美和子でした。
この記事を見つけた際、智恵子の談話が新聞に掲載されているのは非常に珍しい、と喜んだのですが、よく読んだら記者の勘違いでした。
今でこそ「智恵子抄」のヒロインとして有名な智恵子ですが、『青鞜』からも離れ、この当時は単なる一般人だったわけで、こういう間違いもしかたがなかったかもしれません。