毎日更新しているこのブログですが、このところ、芸術の秋、文化の秋ということで、いろいろなイベントのご紹介や実際に足を運んでのレポートやらで、ネタが尽きません。
その間に、新聞各紙のコラムで光太郎智恵子の名が何度も取り上げられて来ましたが、速報の必要があまりないと判断し、たまったらまとめて紹介しようと思って後回しにしていました。しかし、未紹介の件数を数えてみたら5件もなり、そろそろまとめて紹介しなければ、という状況です。
まず、『山形新聞』さん。
談話室 2015年9月5日
▼▽詩人で彫刻家の高村光太郎は「土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性が、実によく同盟して被写体を襲撃する」と評した。酒田市出身の写真家土門が死去し今月で25年。
▼▽妥協を許さぬ執拗(しつよう)な撮影姿勢には逸話も多い。洋画家梅原龍三郎は怒りに震え、撮影が終わると籐(とう)椅子を床へ叩(たた)きつけた。女優の初代水谷八重子は、毛穴まで写る自分の顔を「嫌だわ」と言いつつ“本物”の写真を撮る土門に感謝していたと、娘の二代目が振り返っている。
▼▽写真集『古寺巡礼』はライフワークの集大成。仏像について土門は「じーっと見ていると、胸をついてくるあるものがある」と書いた。伽藍(がらん)さえ止まってはいなかった。宇治平等院では「茜雲(あかねぐも)を背にたそがれている鳳凰(ほうおう)堂は、目くるめく速さで走っているのに気がついた」。
▼▽酒田市の土門拳記念館では戦後70年の企画展「土門拳が視(み)た昭和」を開催中だ。被爆者にカメラを向け広島の現実に立ち向かった「ヒロシマ」、鉱山の暮らしが伝わる「筑豊のこどもたち」、戦前から戦後の東京や地方…。昭和を凝視した土門の格闘に触れることができる。
(2015/09/10付)
山形出身の土門拳に言及する中で、光太郎を枕に使って下さいました。
続いて、『岩手日報』さん。
風土計 2015年9月22日
2015.9.227月に亡くなった哲学者鶴見俊輔さんの父祐輔が、岩手2区の衆院議員だったことはあまり知られていない。戦前、岳父後藤新平の生地で当選を重ねた▼この父を鶴見さんは嫌っていたらしい。今の東大で首席になった秀才で「東大を出なければ駄目だ」と言われ続けた。出世ばかりを考えた「親父は浅いねぇ」「つまらんなぁ」と対談で語っている。エリートの父への反発で自分は不良になった▼万引を繰り返したことがばれて、学校で孤立する。遊び相手も話し相手もいない。一人ぼっちの苦しみに耐え抜いたことが「魂の鍛錬」になったと書く。この経験から一人になる、一人で生きることの大切さを説いている▼今は逆に、一人になるのが難しい。スマホがあるから、いつでもどこでも友達とつながる。すぐ返事をしないと無視されたり、仲間外れになる。この5連休、食事の時やトイレでもスマホを手放せない人もいるだろう▼「魂の鍛錬」はできそうにもない。一人になるのは確かに怖いけれど、高村光太郎の詩「孤独が何で珍しい」にある。「孤独の鉄(かな)しきに堪へきれない泣虫同志のがやがや集まる烏合(うごう)の勢に縁はない」▼連休も後半になった。「国民の休日」という味気ない名のきょうを、スマホから解放される一日にしてもいい。孤独は珍しくないのだから。
さらに『毎日新聞』さん。以前にも続けて光太郎が引き合いに出された、俳句に関するコラム「季語刻々」です。
◇天高し歩くと道が伸びるなり 池田澄子
季語「天高し」は「秋高し」「空高し」などとも言う。大気が澄み、よく晴れて空が高く感じられることを言う。今日の句、歩くと道がどんどん先へ伸びる感じがするのだ。その道をどんどん歩いて行く。歩くことが爽快なのだ。高村光太郎の詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」の気分だろう。私も外に出て歩こう。<坪内稔典>
まさしく「天高し」の秋となりました。
それから『産経新聞』さんでは、書道に関するコラム、というより連載記事でしょうか。10月3日に掲載されました。
日本の書 <37> 近代篇⑨ 「うつくしきものみつ」
長いので引用はしません。
そして『朝日新聞』さん。
ザ・コラム ほんとの空 「住み処」震災が教える価値 上田俊英
こちらも長いのですが、光太郎智恵子に絡む箇所のみ書き抜きます。
岩手県田野畑村で、原発誘致に反対していた岩見ヒサさんが亡くなったことをうけて、
見上げると、空は抜けるような青さだ。岩見さんがその美しさに酔ったという「本当の空」である。
さらに後半、
産業技術総合研究所(産総研)の福島再生可能エネルギー研究所。福島県の復興の拠点として、郡山市に昨春開所した。
本館に3点の日本画が掛かる。作者は高橋かね子さん。赤城山を北にいただく前橋市で暮らし、昨年末に80歳で亡くなった。長男で産総研地質情報研究部門研究主幹の雅紀さん(52)が今年3月、これらの作品を寄贈した。
「母は赤城山を背にしたところに住むことに、こだわった。それが一番の幸せだと、ずっと思っていました」
高橋さんは震災後、福島を描いた。「想 福島の海」(2012年)、「青蒼(せいそう)の海(フクシマ)」(13年)、「安達太良の空」(14年)――。先の2作で画面いっぱいに描かれた女性は視線を落とし、背後に暗い海。それが、「安達太良の空」では明るい空と山々を背に緑の大地に正座し、何かを見つめる。空は、安達太良山をのぞむ地で育った「智恵子抄」の高村智恵子が夫の光太郎に見たいと言った「ほんとの空」か。まなざしの先は将来への希望か。
高橋さんが所属した日本画院の副理事長で、同じ前橋に住む酒井重良さん(67)はこの絵を見て「女性が浮いているように見える」と言った。高橋さんは「浮いていてもいいんです」と答えたという。ならば、この女性は福島の人びとの精神が「住み処」に降り立った姿なのだろうか。
命を守る盾となる「住み処」。福島ではいまも10万をこえる人びとが避難を強いられ、そこに降り立てないでいる。
昨年亡くなった高橋かね子さんの「安達太良の空」はこちら。これは完全に智恵子がモデルでしょう。
様々な人々が、いろいろな思いを胸にその日その日を生きています。光太郎智恵子の生きざま、遺したものが、皆さんの生き方の指針となったり、彩りを添えたりすることを願ってやみません。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月11日
明治25年(1892)の今日、光太郎の実弟で、藤岡家に養子に行った孟彦が誕生しました。
孟彦についてはこちら。