昨日は東京晴海に行って参りました。過日ご紹介した「ライフサイクルコンサート 雄大と行く 昼の音楽さんぽ 第3回 小林沙羅 麗しきソプラノの旅」拝聴のためです。ソプラノ歌手・小林沙羅さんのコンサートで、光太郎詩「或る夜のこころ」に曲をつけた作品も演奏されました。
東京もウォーターフロントのあたりは自家用車での移動範囲です。東関東自動車道~高速湾岸線と乗り継ぎ、渋滞にはまりさえしなければ1時間弱。ただ、平日ですと辰巳JCT付近、渋滞がないということがありえない区間です。昨日はそれほど長い渋滞でもなく、比較的スムーズに着きました。
会場は第一生命ホール。晴海アイランドトリトンスクエアという複合ビルの中にあります。
右上がトリトン像。
まずはドイツ歌曲。シューマンとリヒャルト・シュトラウスの作品から。いきなり圧倒されました。数ヶ月前、とても残念なソプラノ(らしき)独唱を延々と聴かされてしまったことがあり、それがトラウマになっていた部分があったのですが、最初にそれを払拭して下さいました。
ピアノ伴奏は河野紘子さん。フジテレビさんで放映されたドラマ「のだめカンタービレ」で、上野樹里さん扮する主人公・野田恵がピアノを演奏するシーンの手、音の吹き替え、さらに現場でのご指導もなさったそうです。こちらも素晴らしい演奏でした。
途中の休憩はなかったのですが、音楽ライター山野雄大氏によるMCを挟んで、第二部的に「優しき日本~日本歌曲」。ここで中村裕美さん作曲、「「智恵子抄」より「或る夜のこころ」」が演奏されました。
ピアノの高音のトレモロから始まり、美しいメロディーラインが紡がれて行きます。かと思うと、音程なしの台詞的な部分もあり、歌曲というよりオペラのアリアを彷彿とさせるものでした。
作曲の中村裕美さんはこういう方です。
光太郎詩「或る夜のこころ」は、大正元年(1912)の『スバル』第4年第9号に、日比谷松本楼さんでの智恵子との1コマを謳った「涙」などとともに掲載されたものです。
或る夜のこころ
七月の夜の月は
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
かすかに漂ふシクラメンの香りは
言葉なき君が唇にすすり泣けり
森も、道も、草も、遠き街(ちまた)も
いはれなきかなしみにもだえて
ほのかに白き溜息を吐けり
ならびゆくわかき二人は
手を取りて黒き土を踏めり
みえざる魔神はあまき酒を傾け
地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
魂はしのびやかに痙攣をおこし
印度更紗の帯はやや汗ばみて
拝火教徒の忍黙をつづけむとす
こころよ、こころよ
わがこころよ、めざめよ
君がこころよ、めざめよ
こはなに事を意味するならむ
断ちがたく、苦しく、のがれまほしく
又あまく、去りがたく、堪へがたく――
こころよ、こころよ
病の床を起き出でよ
そのアツシシユの仮睡をふりすてよ
されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
七月の夜の月も
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
やみがたき病よ
わがこころは温室の草の上
うつくしき毒蟲の為にさいなまる
こころよ、こころよ
――あはれ何を呼びたまふや
今は無言の領する夜半なるものを――
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
かすかに漂ふシクラメンの香りは
言葉なき君が唇にすすり泣けり
森も、道も、草も、遠き街(ちまた)も
いはれなきかなしみにもだえて
ほのかに白き溜息を吐けり
ならびゆくわかき二人は
手を取りて黒き土を踏めり
みえざる魔神はあまき酒を傾け
地にとどろく終列車のひびきは人の運命をあざわらふに似たり
魂はしのびやかに痙攣をおこし
印度更紗の帯はやや汗ばみて
拝火教徒の忍黙をつづけむとす
こころよ、こころよ
わがこころよ、めざめよ
君がこころよ、めざめよ
こはなに事を意味するならむ
断ちがたく、苦しく、のがれまほしく
又あまく、去りがたく、堪へがたく――
こころよ、こころよ
病の床を起き出でよ
そのアツシシユの仮睡をふりすてよ
されど眼に見ゆるもの今はみな狂ほしきなり
七月の夜の月も
見よ、ポプラアの林に熱を病めり
やみがたき病よ
わがこころは温室の草の上
うつくしき毒蟲の為にさいなまる
こころよ、こころよ
――あはれ何を呼びたまふや
今は無言の領する夜半なるものを――
文語詩ということもあり、「智恵子抄」がいろいろな二次創作として扱われる場合にも、「レモン哀歌」や「あどけない話」などと比べて、あまり取り上げられることの多くない作品です(数十年前に故・清水脩氏がやはり曲をつけられたことがありましたが)。
ところで、昨日のコンサート、次の曲が伊藤康英氏作曲の「あんこまパン」という曲。サンドイッチ用のパンにバターとあんこ、さらにマヨネーズを塗るので「あんこまパン」だそうで、そのレシピをおもしろおかしく詩にした林望氏の詩に曲をつけたものです。
「「智恵子抄」より「或る夜のこころ」」が終わったところで、小林さん、河野さんが一礼。会場から万雷の拍手。まだ第二部の途中なので、ここ、そういうタイミングじゃないのにな、と不思議に思っていたら、一度お二人が袖に引っ込み、代わりに出て来たのがキャスター付きのテーブルでした。その上にはパン、あんこ、バター、マヨネーズ(笑)。小林さん、詩のとおりの手順で「あんこまパン」を製作しながら歌われていました。さらに完成した後はピアノの河野さんの口元にもってゆき、河野さんが一口がぶり。会場内は爆笑。
こちらのインパクトが強すぎて、「「智恵子抄」より「或る夜のこころ」」が忘れられてしまったのでは、と心配になりました(笑)。
第三部はイタリア系。当方、最初に演奏されたベッリーニの「優雅な月よ」が好きな曲でして、大満足でした。
こうした催しの場合、このブログではいつも同じようなことを書いていますが、こうした取り組みを通し、光太郎智恵子の世界を広めていただけるのは非常にありがたいことです。全国のいろいろな分野の表現者の皆様、ぜひよろしくおねがいいたします(ただ、時折あるのですが、とんちんかんな取り上げ方をされるのは困りものです)。
帰途は高速湾岸線~東関東自動車道、カーラジオを聴きながら、快適なドライブでした。
ラジオといえば、今月5日の智恵子命日「レモンの日」に、TOKYO FMさんが、「レモンの日」にちなみ、「シンクロのシティ」という番組の中の「トウキョウハナコマチ」というコーナーで、やはり「智恵子抄」を取り上げて下さったそうです。事前に情報を把握していなかったので聞きそびれましたが、ネット上に情報がアップされています。
普通のお嫁さんがいやだった!? ある有名カップルの幸せと葛藤
ウーマンリブや、フェミニズム。日本において、「女性解放運動」は明治時代から始まりました。女性も自由に生きる道を選べる。今では当たり前のことですが、当時はとても難しいことでした。男女の立場や関係の変化も激動の時代。そんな時代の、ある有名なひと組の夫婦のエピソードをご紹介します。明治に生きた女性で解放運動を行っていた人物はたくさんいますが、そのなかの一人「高村智恵子」をご存知でしょうか。そう。高村光太郎の妻であり、画家でもある、あの「智恵子」です。
文学界きってのおしどり夫婦。心から愛し合っていた彼らですが、実際にはほとんどの間「事実婚状態」でした。
籍を入れたのは、彼女が精神を病み統合失調症を発病してから。
これも、高村が万が一の場合に智恵子の生活を保障するため、仕方なく入籍したものでした。
なぜ、二人は事実婚にこだわったのか。
二人の関係を祝福しない人が多かったのも、そのひとつでしょう。
ですが、最も大きい理由は、高村が、世間一般の「結婚」というものを認めていなかったからかもしれません。
あの有名な「智恵子抄」に収められている「人に」という詩の原文には、こんな文があります。
「いやなんです あなたの往ってしまふのが―― (中略) 小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて (中略) 乳をのませて おしめを干して ああ、何といふ醜悪事でせう」
「いやなんです あなたの往ってしまふのが―― (中略) 小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて (中略) 乳をのませて おしめを干して ああ、何といふ醜悪事でせう」
高村は、自由に生きる「新しい時代の女性」であった智恵子を愛しました。
そんな智恵子が結婚をし、家庭に入り、普通の女性として生きることは「醜悪」なことだったのかもしれません。
二人は男女の新しい形を模索し、そして人生をもってそれを貫きました。
でも、ご存知のとおり、智恵子は心を病み、そのまま亡くなってしまいます。
そんな智恵子が結婚をし、家庭に入り、普通の女性として生きることは「醜悪」なことだったのかもしれません。
二人は男女の新しい形を模索し、そして人生をもってそれを貫きました。
でも、ご存知のとおり、智恵子は心を病み、そのまま亡くなってしまいます。
高村光太郎は、こんな言葉を残しています。
「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」
「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」
彼の傍にいたことにより、智恵子はこのうえない幸せとともに、大きな葛藤を抱えつづけることになったのかもしれません。
文/岡本清香
TOKYO FM「シンクロのシティ」にて毎日お送りしているコーナー「トウキョウハナコマチ」。江戸から現代まで、東京の土地の歴史にまつわる数々のエピソードをご紹介しています。今回の読み物は、「高村と智恵子、二人の愛の形」として、10月5日に放送しました。
こちらも取り上げて下さってありがたいです。
付け足すなら、現在でもそうらしいのですが、光太郎が留学で滞在したフランスでは、事実婚という形態が珍しくないそうです。光太郎が実際に会ったロダンとローズ・ブーレもそうですし、昨夏亡くなった令甥の髙村規氏は、サルトルとボーヴォワールあたりも意識していたのではないかとおっしゃっていました。
「智恵子はこのうえない幸せとともに、大きな葛藤を抱えつづけることになったのかもしれません」、その通りのような気がします。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月7日
平成8年(1996)の今日、東京都立川市に光太郎詩「葱」(大正14年=1925)の詩碑が除幕されました。
葱
立川の友達から届いた葱は、
長さ二尺の白根を横(よこた)へて
ぐっすりアトリエに寝こんでゐる。
三多摩平野をかけめぐる
風の申し子、冬の精鋭。
俵を敷いた大胆不敵な葱を見ると、
ちきしやう、
造形なんて影がうすいぞ、
友がくれた一束の葱に
俺が感謝するのはその抽象無視だ。
碑が建っているのは現在も続く東京都農事試験場の一角で、日本女子大学校時代からの智恵子の友人だった新潟出身の佐藤スミ(旧姓・旗野)がここの場長夫人でした。スミの名は「智恵子抄」に収められた散文「智恵子の半生」にも現れます。
光太郎智恵子結婚前の大正2年(1913)には、智恵子が新潟のスミの実家に滞在、スキーに興じました。また、その際に光太郎から智恵子に送られた書簡が残っており、一昨年、NHKさんの「探検バクモン「男と女 愛の戦略」で取り上げられました。