一昨日、いわき市での現代アート展「毒山凡太朗+キュンチョメ展覧会「今日もきこえる」」を拝見したあと、同じ福島県の本宮市へと愛車を走らせました。こちらでは「第3回カナリヤ映画祭」が開催されており、それが目的でした。
過日もご紹介しましたが、メインは本宮市で撮影された映画「こころの山脈」の上映です。昭和41年(1966)、東宝配給、吉村公三郎監督、山岡久乃さん主演で、光太郎詩「樹下の二人」の一節、「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」が使われているため、以前から観たいと思っていた作品でした。
いわきから常磐道、磐越道、東北道と乗り継ぎ、本宮には早めに到着してしまいました。そこで会場のサンライズ本宮に車を駐め、周辺を散策。本宮は戦時中、現在も続く衣料品メーカーのグンゼさんの工場に空襲があって亡くなった方もいらしたそうですが(ちなみに東京の光太郎アトリエが全焼した前日の4月12日だそうです)、市街地は無事だったらしく、今にも光太郎智恵子がひょっこり出て来そうな建物がたくさんありました。昔ながらの造り酒屋(智恵子の生家を彷彿させられました)、銭湯、旧農協さんの倉庫など。
安達太良山も雄大にそびえています。山頂部分に雲がかかっていて、「乳首」が見えなかったのが残念でしたが。その代わり、「ほんとの空」は青く美しく高く澄んでいました。
そうこうしているうちに、午後3時近くになりましたので、JR東北本線の本宮駅へ。映画上映は5時からですが、その前に参加者は本宮駅前に集合、やはり市街を散策するとのことでした。
本宮市は福島県のほぼ中央に位置するとのことで、ロータリーにはこんな碑がありました。
また、歌手の故・伊藤久男氏が本宮出身ということで、胸像と、代表作「イヨマンテの夜」の碑もありました。
三々五々、参会者が集まってきました。地元の高校の放送部員の皆さんがインタビューを撮影したりもしていました。
午後3時となり、出発。まずは上記画像にもある造り酒屋を見学、さらに、本宮映画劇場というところにいきました。大正時代に建てられた映画館で、通常の興業は行っていませんが、今もイベント等で上映を行う場合もあるとのことでした。
館内外には、これでもかとレトロなアイテムが溢れていました。映画ファンにはたまらないのではないでしょうか。
この日は往時のニュース映画や、一般公開作品の予告編などを上映して下さいました。
その後、館をあとにし、阿武隈河畔を歩いてカナリヤ映画祭会場のサンライズ本宮に向かいました。
この日は午後5時から「こころの山脈」のメーキングフィルム、そして「こころの山脈」の上映、次の日は朝から夕方まで、福島に関連のある映画作品などの上映というスケジュールでした。当方、初日だけの参加でしたが、2日目には木下恵介監督作品「陸軍」(昭和19年=1944、笠智衆・田中絹代)、本宮記録映画「わが町’78」(昭和53年=1978)、昨年公開された「物置のピアノ」(芳根京子さん主演)、一般公募作品、さらに初日と同じ「こころの山脈」のメーキングフィルム、そして「こころの山脈」の上映と、盛りだくさんでした。
ところで、なぜ「こころの山脈」がこれほど大きく扱われているかというと、「本宮方式」とまで命名された制作方法で作られ、本宮の皆さんには忘れられない映画だからだそうです。
元々、本宮では上記の本宮映画劇場の協力のもと、小学生が授業の一環として映画を鑑賞、感想文や感想画を書くといった取り組みがなされていました。これを「本宮映画教室」と称したそうです。戴いた資料によれば、昭和32年(1957)から同39年(1964)までに、実に173本もの映画が「本宮映画教室」で上映されていました。下記が上映作品の一覧です。
ところが、子供たちに安心して見せられる良質な映画がどんどん少なくなっていき、それならば、と本宮の皆さんが自分たちで映画を作ろうと思い立って作られたのが「こころの山脈」というわけです。
資金はカンパで集め、ロケは本宮で、しかし、吉村公三郎監督はじめ撮影スタッフはきちんとプロに依頼、俳優陣も中心となる役の人達(山岡久乃、宇野重吉、吉行和子、奈良岡朋子、殿山泰司他)はプロ、ただし子役や大人でもちょい役の人々は地元の皆さんという制作方法でした。配給も東宝さんが引き受けてくれたそうです。
ストーリーは、山岡久乃さん演じる主人公の主婦が産休補助教員として3ヶ月だけ小学校に赴任、家庭の愛情に飢え非行少年になりかけていた4年生の児童をはじめとする周囲の人々との交流を描いたもので、エロもグロもバイオレンスもない非常に良心的な作りです。
特異な制作方式と云うことで、公開前にはかなり注目されたのですが、残念ながら興行的には成功をおさめることはできませんでした。当時の評論等を読むと、こういった良心的な映画が当たらないのは嘆かわしい的な発言も見られますが、テレビの普及により映画自体が斜陽化し、生き残りをかけてエロやグロやバイオレンスを前面に打ち出す映画が主流だった時代、それも仕方がなかったと思います。特に興行主である全国の映画館が扱いたがらなかったそうです。
さて、実際に初めて「こころの山脈」を観て、ほんとうに良心的でいい映画だと思いました。シナリオの載った書籍を持っているので、内容は知っていましたが、演出上のちょっとした動きなどはシナリオには書かれていませんし、やはり映像で実際の作品を観るのとでは大違いでした。ただ、やはり興行的に当たらなかったというのもうなずけました。「娯楽」を求める大衆には地味すぎて不向きでしょう。しかし、こういう良心的な作品を作るその意気は買いたいと思いますし、こういう灯を消してしまってはいけないと思いました。
ところで、他にも光太郎智恵子のからむ映画や演劇などは、それなりにたくさん作られています。それらのパンフレット、チラシ、ポスターなどの類も古書店やネットなどでぽつぽつ売りに出されており、見つけるとついつい購入してしまいます。平成23年(2011)に群馬県立土屋文明記念文学館さんで開催された企画展「『智恵子抄』という詩集」の際には、その中の何点かをお貸しし、好評だったそうです。
「こころの山脈」関連もぽつぽつ入手しており、今回、会場にお持ちしました。というのも、「カナリヤ映画祭」のチラシに「こころの山脈」資料の展示もされている旨書いてあり、当方手持ちの資料が並んでいなければ併せてみていただこうと思ったためです。
するとズバリでした。当方のお持ちしたポスター3種類のうちの2種類は主催の「本宮の映画文化を継承する会」さんでも入手できておらず、喜ばれました。他にもチラシ、当時の『キネマ旬報』などをお持ちしました。
「本宮の映画文化を継承する会」さん所蔵の資料にもいろいろ珍しいものがあり、興味深く拝見しました。スチール写真、撮影風景のスナップ、当時の新聞等の切り抜き、実際に使われたシナリオ等々。
ところで、主演の山岡久乃さんは、平成11年(1999)に惜しまれつつ亡くなりましたが、その晩年、「こころの山脈」に出演した町民の皆さんが再び立ち上がって制作された映画「秋桜」(平成9年=1997、小田茜さん主演)に、ほとんど手弁当でご出演され、当時の子役の皆さんと旧交を温めたそうです。泣かせるエピソードです。
「カナリヤ映画祭」、主催の「本宮の映画文化を継承する会」さんがNPO法人化し、来年以降も続けていくとのことです。ぜひ足をお運びください。
最後に当日の『朝日新聞』さん福島版の記事をご紹介します。
福島)「映画教室」再び 銀幕の街・本宮復活へ始動
「映画は教育そのもの」という信念を持つ人たちがいる。本宮町(現本宮市)の母親たちが子どもに映画を通して学ばせたいと制作費をカンパした「こころの山脈」(山岡久乃出演)が自主制作から50周年を迎えた。今、当時の小学生が映画で再び本宮市を元気にしたいと動き出している。彼らはある「教室」の卒業生でもあった。
活動を本格始動させたのは「本宮の映画文化を継承する会」代表の本田裕之さん(59)ら。8月末に会をNPO法人化し、今年で3年目となる映画祭では、ロケ地や映画館などを歩くツアーを設定。今後は映画教育についてのシンポジウムも開催したいという。
「もともと銀幕の街なんです」と本田さんは話す。
現存する「本宮映画劇場」(旧本宮座)は1914(大正3)年開館。25年ごろには、「花の本宮」という当時の街並みを映した記録映画が制作され、映画を中心に街は活気づいていたという。
56年、全国の映画関係者から注目を浴びる取り組みが始まる。当時、大流行していた「太陽の季節」(石原裕次郎出演)が描く無軌道な青年像を心配した母親たちが立ち上がったのだ。
毎月、母親や教師が選んだ映画が近くの劇場で特別上映され、全校生徒が授業の一環として鑑賞する。57年からの7年間で168本が上映され、いつしか「本宮方式映画教室」と呼ばれるようになった。
その中で、映画を作ろうという動きが活発化。町民のカンパで完成したのが「こころの山脈」だった。産休補助教員と生徒の心のつながりを描いた作品で、子役は本宮の小学生が演じた。
本田さんも出演した一人。「冬なのに、夏の設定だから半ズボンはいてこいって言われました」と笑う。今でも近所の人や同級生が集まると、その話に花が咲く。「映画教室は本宮の共通の記憶なんです。銀幕の街本宮を復活させたいですね」
今年の映画祭は、19日、20日にサンライズもとみやで開かれる。「こころの山脈」のほか、本宮町が制作した記録映画なども上映される。入場無料。問い合わせは継承する会(0243・34・2175)。(江戸川夏樹)
さらに「福島みんなのNEWS」というサイトでも当日のレポートが載っています。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月21日
大正2年(1913)の今日、『東京日日新聞』で、光太郎がカフェ「メイゾン鴻乃巣」のメニューの挿画を担当したことが報じられました。