雑誌としては当方が唯一定期購読している月刊『日本古書通信』の今月号が届きました。

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先月号まで、廣畑研二氏による光太郎に関わる連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が掲載されていましたが、今月号には過日このブログでご紹介した『多田不二来簡集』に関する記事が載っています。著者は同誌編集長の樽見博氏です。

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光太郎宛書簡に関する記述もありました。曰く、

 光太郎の大正六年四月十四日夕の葉書は、不二が川俣馨一主宰の俳句雑誌「常盤木」に書いた「詩壇偶評」と光太郎宛の「懇ろな御手紙」への礼状で光太郎全集に収録されているが、その「懇ろな御手紙」の下書きが多田家に残されており、今回その全文と写真が参考として収録されている。犀星への強い信頼感など「感情」同人への思いが語られた興味深い長文の手紙だ。「常盤木」への「詩壇偶評」は著作集には収められていないようだが、大正詩史にとって時期的にも重要な文献ではないだろうか。

手紙は往復が基本ですから、片方からのものばかり読んでも解らない部分があります。そういう意味では「往」と「復」の両方が読めるというのはありがたいですね。

それにしても、『多田不二来簡集』、樽見氏は次のように評されています。

「ここに集められた書簡の多くは未発表のものであり文学史的にも大きな意味を持つが、商業的には極めて出版の困難なものであるだけに、多田曄代さん(編者・多田不二息女)の功績は大きい。」「本書に収められた書簡から示唆される問題は多い筈である。」「意義深い刊行であると思う。」

商業的には極めて出版の困難」だけれど、「意義深い刊行」である書籍に対し、その意気や良しと、エールが送られています。そのとおりですね。

そしてそういう刊行物に対して紙面を割いてエールを送る『日本古書通信』さんの意気もまた良し、と思います。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月19日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地・中野のアトリエを、作家の武田麟太郎未亡人と子息らが訪問しました。

当日の日記の一節です。

午后「好きな場所」の武田未亡人、子息さん、そこの女給さんと三人くる。梨をもらふ、ビールを出す、

「好きな場所」は昭和14年(1939)に書かれた武田の短編小説の題名です。同16年(1941)刊行の短編集「雪の話」に収められました。

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この中で武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」として、光太郎に関する噂話を書いています。

場所は東京三河島のとんかつ屋「東方亭」。戦前から戦時中にかけ、さらには十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)制作のため再上京してからも、光太郎がひいきにしていた店です。店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、のちに光太郎は、彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

どこまで真実かわかりませんが、ここで光太郎は正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。さらに東方亭の近くにある別の飲み屋での話として、武田はこう書いています。

ここでも、隠亡爺さんの噂を聞いてゐる。そんな仇名で呼ばれてゐる客が、しよつちゆう来ると云ふので、人相を照し合してみると、まさしく我が老詩人なんだ。へえ、こんな汚いうちへも来るのかいと、大袈裟に首を振る私に、毎晩、おそくなつてから幽霊みたいに入つて来るわと返事するのは、横を向いて煙草をふかす色の黒い女だ。ねえ、あの人はねえ、自分の死んだお神さんも自分で焼いたんだつて、でも、自分を焼く時は、自分で取扱へないのが残念だつて云つてるわ、さう滑稽さうに笑つて、別の小さな出つ歯の女がつけ加へる。ふいに、私は涙を流してゐるんだ。詩人が若い頃、その詩に情熱を持つて幾度も読みあげた夫人が、永い病気の果てに、先日死んで行かれた。それを知つてた私は、突然のやうに、氏の気持の中へ飛び込めたと妄想したのにちがひない。

智恵子が亡くなったのは「好きな場所」の書かれた前年、昭和13年(1938)のことでした。

ところで武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」「老詩人」とぼかして書いていますが、同書の挿絵はもろに光太郎の顔です(笑)。

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武田未亡人のとめは、光太郎再上京後、たびたび中野のアトリエを訪れています。光太郎日記には「「好きな場所」マダム」とも記されており、どうも「好きな場所」という名の酒場を経営していたのではないかと思われます。武田本人は戦後すぐ、粗悪な密造酒を飲んだため亡くなっています。