台風から変わった低気圧の影響による豪雨のため、主に関東から東北にかけ、甚大な被害が出ています。鬼怒川堤防の決壊による濁流からは、あの東日本大震災による津波を想起された方も多いのではないでしょうか。被害が少しでも少なく済むことを願います。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市は、大きな被害のあった地域とそう遠くないので、ありがたいことに心配して電話等下さった方もいらっしゃいましたが、特に被害はありませんでした。

さて、堤防が決壊した鬼怒川沿いで、決壊現場の常総市より上流に位置し、やはり避難指示等が出された茨城県結城市からの光太郎がらみのニュースです。ソースは地元紙『茨城新聞』さんです。

結城市出身の詩人・多田不二 著名人と交流の書簡集

 結城市出身で詩人・文芸評論家の多田不二(189無題3-1968年)に宛て、詩人の室生犀星や萩原朔太郎など各界の著名人たちが送った書簡を収録した「多田不二来簡集」(紅書房社)が刊行された。収録書簡の多くが未発表。大正から昭和にかけての著名人たちの感情や熱意、不二との交流が記されており、関係者は「不二の研究が進む貴重な資料。著名人たちの新たな事実発見につながる可能性もある」と話している。
 不二は、朔太郎や犀星らとともに詩集「感情」の同人として詩や訳詩を発表。新神秘主義を提唱した詩誌「帆船」を主宰し、独自の詩の世界を構築した。NHKに入局後、玉音放送の録音に関わるなどして、生涯にわたり多くの文化人と交流を深めた。
 書簡は、不二のきょうだいの孫にあたる多田和代さん夫婦らが保管していた。
 来簡集では、このうち194人の593点を(1)学生(2)NHK勤務(3)社会文化活動-の三つの時代に分けて収録した。
 (1)の書簡からは、朔太郎や犀星、山村暮鳥、高村光太郎ら大正時代の詩壇を飾る詩人たちの息吹と人間性、生の交流の様子がうかがえる。(2)の書簡からはさまざまな分野の著名人の放送を依頼する心情などが、(3)からは戦後の文化人の熱気などがそれぞれ伝わってくる。
 各時代を通じて送られた犀星からの書簡は、収録49点のうち20点が初公開された。朔太郎の死を告げる1942年5月11日の犀星の電報「ハギ ワラケサシス」は、不二が後日、随筆で回顧した内容を裏付けるもの。今回の編集作業で現存が確認され、貴重な資料という。
 犀星からの17年1月9日消印のはがきには「山村(暮鳥)君が泊つてゐる。こまつた-」と書かれている。不二研究家で元城西国際大教授、星野晃一氏(79)は「暮鳥が編集したドストエフスキー書簡集を東京の出版社に売り込むための宿泊に、犀星が困惑していることがうかがえる」と指摘する。
 来簡集は不二の次女、曄代(てるよ)さんが「父への最後の親孝行がしたい」と星野氏に要請したことがきっかけで、編集作業がスタート。結城市の市民団体「結城古文書好楽会」のメンバーなどが協力して、約2年半をかけてまとめた。
 和代さんの夫で割烹(かっぽう)旅館社長、多田和夫(まさお)さん(84)は「結城にとってかつてない資料」と強調。「文化のまちの結城市民にとって、地元の歴史を知るきっかけになれば」と大きな期待を寄せた。
 多田不二来簡集はA5版、584ページ。4500円(税別)。(溝口正則)


結城市出身の詩人・文芸評論家、多田不二宛の書簡をまとめた書籍が刊行されたというわけです。

以下、版元の紅書房社さんのサイトから。

多田不二来簡集

編者名/星野晃一、多田曄代000
出版年/2015年8月
定価/4,860円(税込)
版型/A5
頁数/584
ISBN/978-4-89381-302-2

編者略歴
星野晃一(ほしの・こういち)
1936年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。城西国際大学教授を経て、現在、武蔵野大学客員教授。
 著書に『室生犀星-幽遠・哀惜の世界』『室生犀星-創作メモに見るその晩年』『犀星 句中游泳』 『室生犀星 何を盗み何をあがなはむ』、編著に『新生の詩』『室生犀星文学年譜』『室生犀星書目集成』『多田不二著作集』全二巻『室生犀星句集』など。
多田曄代(ただ・てるよ)
1932年、多田不二の次女として生まれる。長らくNHK松山放送局に勤務、現在松山市在住。

特徴と内容
長らく多田家に保管されていた書簡を一挙初公開!
大正期の詩界に異色の光芒を放つ詩人・多田不二のもとに寄せられた各界著名人194名からの書簡593通を一挙に公開。封書・はがき・郵便書簡・電報など、一部を除きほとんどが未公開。長らく多田家に保管されていたものが、このたび明らかに。


光太郎から多田宛の書簡も含まれているということですが、おそらくそれらは「一部を除きほとんどが未公開」と謳われているうちの一部の方、すなわち公開されているものと思われます。筑摩書房の高村光太郎全集第21巻に、多田宛の書簡が5通(すべて大正6年)掲載されており、それでしょう。

というのも、当方、『茨城新聞』さんの記事にも出て来る縁者で書簡を保管なさっていた多田和夫氏に、書簡を見せていただいたことがあるからです。十数年前になるかと思いますが、場所は記事にもある多田氏が経営されている「割烹のやど結城ガーデン」。こちらには「小さな文学館」というコーナーがあり、書簡以外にも多田の著書や関わった雑誌などが展示されています。下記はサイトから画像をお借りしました。光太郎からの書簡です。

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そちらを拝見し、さらに多田氏に光太郎からの来簡について伺ったところ、上記の画像のものを含む筑摩の全集のために提供したものですべてというお話でした。ただ、それが十数年前でしたので、もしかすると、その後、紛れ込んでいた未発表のものが見つかったかもしれません。

余談になりますが、免疫学者・文筆家で、養老孟司氏とも親しかったという東京大学名誉教授だった故・多田富雄氏(その頃はご存命)も縁者だと、その際にご教示いただいたことを覚えています。

何はともあれ、記事にあるとおり、室生犀星からの未発表書簡が大量に含まれているということで、そういった部分で詩史全体の研究に大きく貢献するものと思われます。

それにしても、結城ガーデンさんも今回氾濫した鬼怒川に近く、支流の田川という川がすぐ裏を流れている場所です。大きな被害を受けていないことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月11日

平成23年(2011)の今日、二本松市民交流センターで開催されていた「詩集『智恵子抄』発刊70周年記念~光太郎との相聞歌~智恵子紙絵展」が閉幕しました。

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智恵子紙絵の実物も19点、展示されました。

平成23年(2011)といえば、あの東日本大震災のあった年で、福島は原発事故による風評被害がひどかった時期でした。あれから4年。だいぶ復興も進みました。今回の豪雨被害の被災地も、1日も早く復興することを祈ります。