報道ではありませんが、新聞には欠かせないコラム。最近、光太郎が取り上げられたコラムをご紹介します。
まずは『神戸新聞』さん。
正平調 2015/08/30
大事にする言葉を毛筆でしたためる。揮毫(きごう)は、筆遣いはもちろん、どんな言葉を選ぶかに人となりがうかがえ興味が尽きない◆とりわけ勝負に生きるプロ棋士の揮毫は味わい深い。将棋の内藤國雄さんは「伸び伸び しみじみ」だ。自在を旨とする内藤さんらしい。「遊藝」は囲碁の羽根直樹さん。勝敗にとらわれぬよう心をもみほぐす意味と察する◆将棋界の第一人者羽生善治さんは「玲瓏(れいろう)」を好む。いつだったか色紙に書いてもらったら、物静かな印象とまったく違う。激しい筆運びで、戦う人の素顔に触れた思いがした◆先日、本紙主催の王位戦で5連覇を遂げた。記事に「玲瓏」にまつわる話がある。透き通る美しさ。それを表す2文字に「まっさらな気持ちで」との思いを託しているのだという◆これでタイトルの通算獲得数が93期になった。歴代1位の自身の記録を自身で塗り替えていく。高村光太郎の詩「道程」は「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」で始まる。この「僕」を「羽生」と書き換えたくもなる。力は衰えない◆タイトルを総なめにした若い頃は「泰然自若」と書いた。平常心で、との戒めだ。まだ44歳。勝ち星を重ねるこの先、どんな言葉を胸に81マスと向き合うのだろう。揮毫の移り変わりだけで、棋士の人生が読み解けそうにも思う。
以前にもご紹介しましたが、『神戸新聞』さんの「正平調」では、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。
続いて『毎日新聞』さん。古今の俳句を一句ずつ紹介するコラム「季語刻々」が、社会面に掲載されていますが、先週から今週にかけ、4日連続で光太郎に触れて下さいました。著者は俳人の坪内稔典氏。ただ、紹介した俳句は光太郎以外の作品です。
季語刻々
焼茄子(やきなす)の皮のくろこげほどでなし 岡本高明(こうめい)
何が「焼茄子の皮のくろこげほどでな」いのだろう。愛情か人生? 句集「ちちはは」から引いた。高村光太郎は敗戦後の数年を岩手・花巻の西郊で過ごした。小屋で独居生活をしたのだが、1946年9月4日の日記には、「茄子皆大きな実をつける」とある。夕食でさっそく焼き茄子にし、酢みそで食べた。その感想はただ一語、「美味」。(2015/09/04)
採る茄子(なす)の手籠にきゆァとなきにけり 飯田蛇笏
「きゆァ」と鳴くって、いいなあ。こんな茄子だと生でかじれそう。昨日、高村光太郎の日記を引いたが、1946年9月5日の朝食は冷や飯とみそ汁。みそ汁の具は「ジャガ、わかめ、茄子」など。彼は茄子を自家栽培していた。翌6日の記事には「畑の茄子五六個とる。相当になり居れり」とある。茄子を楽しむ日が続いている。(2015/09/05)
やわらかく包丁はじくトマトかな 乳原孝
とりたて? ぷりぷりのトマトが、「切らないでかぶりついてよ」と言っている感じ。作者は私の俳句仲間だ。1946年9月6日、岩手・花巻の郊外にいた高村光太郎は、野菜の栽培を楽しんでいた。この日は起きるとすぐにトマトの支柱を補強した。「トマト赤きもの二個とる。此頃(このごろ)はトマト殆と毎日とる」と日記に書いている。(2015/09/06)
二階より駆け来(こ)よ赤きトマトあり 角川源義
「晴、ひる間暑気つよく、朝夕涼し。明方は冷える。五時にてはまだうすぐらし。日の出六時半頃」。これは1946年9月7日の高村光太郎の日記。彼は岩手・花巻の郊外にいたが、この時期、夏と秋が入り交じっていることが日記からよく分かる。源義はKADOKAWAの創業者、俳人でもあった。この句、トマトが実にうまそう。(2015/09/07)
すべて筑摩書房『高村光太郎全集』第12巻に収められている昭和21年(1946)の日記にからめています。花巻郊外太田村での山居生活は、昭和20年(1945)から7年間続き、穀類は配給に頼らざるを得なかったものの、野菜や芋類はほぼ自給できていました。
この頃の光太郎自身の俳句を一句。
新米のかをり鉋のよく研げて
昭和20年(1945)、太田村の山に入って間もなくの作です。鉋(かんな)は大工道具の鉋。山小屋生活を始めるに当たって、小屋の流しや棚、机などの調度品類を、光太郎は自作しており、それにかかわるのでしょう。新米は村人が持ってきてくれたとのこと。
下の写真、大工仕事をする光太郎(昭和20年=1945)と、トマトを作る光太郎(昭和25年頃=1950頃)です。
農と俳句、ともに四季の移ろいとの対話、格闘から生まれるものです。そして、古来から自然の営為と不即不離の関係を続けてきた日本人の魂の原点に関わると思います。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月10日
大正2年(1913)の今日、『国民新聞』に「女絵師(五) 新しい女智恵子」掲載されました。
いわゆるゴシップ記事で、智恵子を誹謗中傷するものでした。
その書き出しはこうです。
女の誇(プライド)に生き度いとか何んとか云つて威張つてる女、 節操の開放とか何とか云つて論じ立てる女、 之れが当世社会の耳目を集めて居る彼(か)の新らしい女である 長沼智恵子は矢張りさうした偉い考へをもつた青鞜社同人の一人である 女子大学を出てから太平洋画会の研究所に入つたのが四十二年で昨年辺迄同所に通つて居た、見た所沈着(おちつ)いた静かな物言ひをする女であるがイザとなれば大に論じて男だからとて容捨はしない、研究所の男子の群に交つて画を描いて居ても人見しりするやうな事は断じてなく話しかけられても気に喰はぬ男なら返辞は愚か見返りもしない
ある意味、真実かも知れませんが……。
さらに結びの部分では、
近頃に至つては高村光太郎氏と大いに意気投合して二人は結婚するのではないかと迄流言(いは)れたが 智恵子は却々(なかなか)もつて結婚なぞする模様はない 矢つ張友人関係の気分を心ゆく許り味ははうとして居る 而(そ)して青鞜社講演会なぞにも鴛鴦の如(や)うに連れ立つて行けば旅行にも一緒に出蒐(でかけ)て居る 玆(ここ)暫くは公私内外一致の行動を取るのださうな
となっています。旅行云々は、ちょうどこの頃二人で訪れていた上高地への婚前旅行を指します。この5日前には、『東京日日新聞』に、「美くしい山上の恋」というゴシップ記事も載りました。