先週の『東京新聞』さんの千葉中央版に以下の記事が載りました。
昨日もご紹介した、昭和9年(1934)に智恵子が療養した千葉県九十九里。こんなところにも悲惨な戦争の余波がしばらく残っていたという話です。
<九十九里の赤とんぼ 千葉の戦後70年>智恵子が愛した砂浜 句に込めた平和への思い
人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の砂にすわって智恵子は遊ぶ。
詩人で彫刻家の高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一節に、九十九里が登場する。一九三四年、妻智恵子は療養のために豊海町(現九十九里町)の真亀納屋に八カ月ほど滞在し、光太郎は毎週のように東京から見舞ったという。智恵子が小鳥と戯れ心を癒やしたその砂浜こそ、十四年後に米軍のキャンプ片貝に姿を変えた場所だった。
内山いつ(78)=九十九里町=は、父親を太平洋戦争で亡くし、母子家庭で育った。「明日食べるものをどうにかしなくちゃいけない毎日だった」。五歳年下の妹・長谷川ぬい(73)=大網白里市=と、イワシの地引き網を手伝ったり、ヨシを刈って売ったり。少しでも家計の足しになるならと、夜なべで内職もした。
自宅から三百メートル先にキャンプ片貝ができ、町の様子が不穏になる中で過ごした思春期だった。子どもたちがたばこを吸い、化粧した姿を見かけるようになった。夜道を歩いていると米兵に声を掛けられ、「アイ・アム・スクールガール」と答えると逃げていった。母子家庭に突然米兵が押しかけて来ることもあり、不安だった母親は、ガードマン代わりに内縁の夫を持った。
そんな中、内山は豊海町の青年会が中心となった俳句会「白濤(はくとう)会」に参加する。中学生から二十代前半の若者が三十人ほど集まり、思いを句に込めた。「怖い体験をすることが増えた。誘惑も多く、このままでは町がだめになってしまうんじゃないかと、みんな思っていた」
五二年四月、サンフランシスコ講和条約の発効で日本は主権を回復し、米軍による占領は終わった。しかし、同時に発効した日米安全保障条約(旧安保条約)により、米軍は希望する基地は今まで通り使うことができ、キャンプ片貝でも変わらず演習が続いた。
五三年七月、朝鮮戦争の休戦協定が調印されると、キャンプ片貝で年二百日を超えて行われていた高射砲演習は徐々に減っていく。五七年三月には、政府が米軍に接収された九十ヘクタールのうち二十ヘクタールに縮小して提供することを決め、調達庁(現防衛省)が県に通知した。
ところが米軍は同年五月、突然「永久に射撃演習を中止する」と県に通告。しばらくして敷地を返還し、十年間住民を苦しめたキャンプ片貝が姿を消した。
突然の基地撤退について郷土史家の古山豊(67)=大網白里市=は「核兵器の開発が進む中、高射砲という戦術が時代遅れになり、キャンプ片貝の必要性そのものが低くなった」と指摘。五四年に自衛隊が発足して日本に一定の防衛力が備わったことも一因とみる。千葉大の三宅明正教授(日本近現代史)は、五〇年代後半、本州各地で米軍基地の撤退が相次いだことに着目。「政府が積極的に基地返還を求めることは無かったが、米国側が基地闘争の高まりを危険と判断し、返還を進めたのだろう。撤退は住民の反対運動が決定的だった」と分析する。
キャンプ片貝の売店で働いていた宇津木勇(83)=東金市=は五六年ごろ、将校に「沖縄で働けないか」と尋ねると、「沖縄は米国の永久接収だから異動はできない」ときっぱり断られたことを覚えている。米軍基地は、米政府統治下の沖縄に集中。今も在日米軍専用施設の74%を占める。
無人機「赤とんぼ」の墜落や高射砲演習「ドカン」の騒音、振動被害、米軍車両による事故…。九十九里の住民がかつて経験した同じ苦しみを今、沖縄をはじめ基地のある全国の町の人々が味わっている。
平和の世永久(とわ)につづけよせみしぐれ
内山は、ドカンの鳴り響くあの時代を生きたからこそ、暑い夏のせみしぐれに平和を感じ、平和を祈る。智恵子が愛した九十九里に思いをはせながら。 =文中敬称略、おわり (柚木まり)
昭和32年(1957)に返還されるまで、智恵子が歩いた浜の一帯が、米軍の実弾演習場として使われていたことは、千葉県民でもあまり知りません。当方も、光太郎智恵子がらみで知っていたというところです。昭和25年(1950)には、「九十九里浜闘争」という反対闘争も起こっています。この夏、自民党が安保法案の根拠として無理矢理引き合いに出していた「砂川闘争」など、各地でこうした住民運動が起こっていました。
返還後の昭和36年(1961)、記事にもある地元の俳句サークル「白濤会」の皆さんのお骨折りで、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建てられました。
実は、この碑も米軍基地に関係があります。
以下、草野心平の回想(昭和39年=1964 『新潮』掲載「高村光太郎・智恵子」)から。
昭和三十六年(光太郎歿後六年)に私は二回、九十九里浜にいった。新しい町村合併後で片貝も真亀納屋も九十九里町に編入されていた。その町の青年有志が中心になり、あとでは町長なども応援にたっての詩碑建設の話が前年の暮頃から進んでいた。高村家でもそのことを了承したので、三十六年の何月だったかは忘れたが、石材と建碑の場所の選定をまかされて出掛けていった。
(略)
町の有志の人たちのあいだではそれも大体目星がついているらしく私を先ずそこに案内した。米軍の演習基地はもうすっかり取払われていて、以前は何が建っていたのだろうか、正方形の大きなコンクリの台座が露出しているところがあった。既成のその台座を利用してその上に建てたいという意見であった。
(略)
資金の点もあるらしいし、
「あの台座の上でもいいでしょう。」
と私は言った。風景もいいし、あの辺を智恵子さんは散歩したに違いないとも思ったから。
というわけで、当初は、米軍演習場の遺構を使って碑の台座にするという計画でした。しかし、それは白紙に戻ります。先の心平の回想の続きです。
その晩成東の宿で、みんなが引きあげたあとに私の考えは然し変わった。翌る朝東京へ帰る予定を変えて私はまた町役場に出掛けていった。米軍が使っていた台座の上に建てるのはどうしてもすっきりしない。あの上には絶対に建てたくない。そんな気持ちに私は豹変していた。そしてきのうと同じことを私たちは繰返した。米軍台座よりも沖合に近く、そこよりも更にいくらか高みのある砂丘、私たちはそこに決めた。津波などのことも考え、二米のコンクリの台座を新しくつくり実際に出来上がったときはあたりは平凡な砂の丘だけで台座は寸分も見えないように、そんな希望も受入れられた。
こうして「千鳥と遊ぶ智恵子」碑が建ったのです。当初は心平の回想の通り、波打ち際を望む砂丘に建てられました。下の画像は碑の除幕の翌年、昭和37年(1962)に刊行された『光太郎のうた』(社会思想社現代教養文庫 伊藤信吉編)の表紙です。
しかし、その後、昭和47年(1972)に碑と海岸線の間に九十九里有料道路が通され、残念ながら現在は碑から海が見えません。何だかなあ……という感じです。
さて、もう1件、やはり先週の新聞記事を紹介します。「戦争」「光太郎」そして「俳句」ならぬ「短歌」ということで、多少なりとも関わるかと思いますので。『高知新聞』さんの記事です。
「戦争は二度と再びするまいぞ」 短歌九条の会こうち発足 31文字に平和込め 県内から50人参加
〈戦争は 二度と再び するまいぞ よろよろ生きて 九条守る〉―。政府による解釈改憲で憲法の平和主義が大きく変容しかけている中、高知県内の歌人らが「短歌九条の会こうち」を立ち上げた。31文字の短歌に平和への思いを込め、憲法9条を守るとの意思を広げていく狙いだ。
会は7月15日に発足した。ちょうど、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障関連法案の採決が強行され、衆院を通過した日に当たる。
その様子を会員は詠んだ。
〈国民の 理解不十分と 認めつつ いきなり衆院 採決強行〉
会には、安保法案への危機感や憲法順守の思いを表現しようと、高知市や四万十市、安芸市などから50人余りが集まっている。世話人の梶田順子(みちこ)さん(75)=高知市福井町=によると、「戦前の反省がある」と言う。
満州事変後の「15年戦争」で、斎藤茂吉や高村光太郎ら当時の著名な歌人は、積極的に「愛国歌」を詠んで戦争に協力した。
梶田さんは「日常が壊されると、歌も自由に詠めなくなる。今はまだ、間違うちゅうことは間違うちゅうと言える。黙っていては認めたことになってしまう」と話す。
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会員の作品には、自身の戦争体験を取り上げたものも多い。
〈父おくる 母の涙を 見てしより 言へず語れず 戦を憎みき〉
〈新婚の 僅(わず)かひと月 嫁残し 戦死せる子の 墓撫(な)づる母〉
梶田さんは1945(昭和20)年7月4日の高知大空襲で自宅を失った経験を持つ。親類はニューギニアで戦死している。
「他国の人を殺さず、殺されずにやってこれたのは憲法9条があったから。安保法案はその9条を壊してしまう。短歌を一つ一つ味わってもらい、今の社会情勢を考えるきっかけになれば」
梶田さん自身はこう詠んだ。
〈子の戦死(し)をば 誉れと言ひし 彼(か)の日日の 還(かえ)り来(きた)るを 止めねばならぬ〉
会では、短歌を掲載した会報の発行や学習会を随時開催するという。投稿や入会希望、賛同者は梶田さん(090・8692・8221)へ。
戦後70年。草野心平が「絶対に米軍が使っていた台座の上に詩碑を建てたくない」とがんばったような努力は、形を変えてこのように受け継がれています。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月28日
昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、姪の高村美津枝に葉書を書きました。
八月廿六日のおてがみ 今日来ました。お庭の作物のこと おもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長) 唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、エン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首、)など。
本当かな?という気がしないでもありませんが、まあ、これら全てを同時に作っていたということではないのでしょう。