昨日、千葉県勝浦市にて「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」」を拝見して参りました。
会場は勝浦市役所近くの勝浦市芸術文化交流センター・キュステさん。音楽ホールなどを備えた施設です。
千葉市にある千葉県立美術館さんの収蔵品の出張展示ということで、今回は「高村光太郎と房総の海」というテーマに絞っての実施です。
順路に従って歩くと、まずは「房総の海」。様々な作家が描いた房総の海岸風景、風俗作品が展示されています。驚いたのは、中西利雄の水彩画。中西といえば、その歿後に光太郎が、東京中野に今も残る中西のアトリエを借りて、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作しました。中西はアトリエを建てた直後に急逝し、その後、貸しアトリエとなっていたのです。
また、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの川瀬巴水の新版画、晩年を千葉県で過ごした東山魁夷の日本画など、逸品ぞろいでした。
そして光太郎の彫刻。以前にこのブログでご紹介したとおり、全てブロンズで「猪」(明治38年=1905)、「薄命児男児頭部」(同)、「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「手」(同7年=1918頃)、「十和田湖畔の裸婦群像のための手習作」(昭和27年=1952)、「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」(同28年=1953)の6点が展示されていました。
いずれも新しい鋳造ですが、いいものです。入場無料ですし、お近くの方は、ぜひご覧下さい。
行きは当方の住まう香取市から東関東自動車道の宮野木JCTで京葉道に乗り換え、市原から国道297号で南下というルート、いわば内房廻りでしたが、帰りは勝浦から海岸沿いに北上する外房廻りで帰りました。途中、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた九十九里町に立ち寄るためです。
台風から変わった低気圧の余波で、大雨洪水警報が発令されており、実際、滝のような雨も降る中、愛車を駆りました。右手にちらちら見える九十九里浜の海も、だいぶ時化ていました。その白く荒々しい波濤を見ながら、さまざまな画家達が画題に選んだのもうなずけると思いました。
九十九里町に着いた頃には、雨も小降りとなっていました。国民宿舎サンライズ九十九里さんのかたわらに立つ、「千鳥と遊ぶ智恵子」碑を見て参りました。年に1、2回はここを訪れますが、何度来てもいいものです。
昼食はそこからほど近い浜茶屋向島さんで摂りました。注文したのは、自分で食材を焼いて食べる本蛤セット+焼きおにぎり。この店も3度目の来訪ですが、いつもこれです。前回はほぼ1年前、NHK大阪放送局の「歴史秘話ヒストリア」ディレクター氏とのロケハンでした。
焼く前がこちら。蛤が3個、イワシが2尾、ホタテと栄螺が一つずつ。写っていませんが、焼きおにぎりは2個で1人前です。
そして焼いている最中。香ばしい匂いが食慾をそそります。
これで2,500円ほどです。「安い!」というわけではありませんが、このボリュームにしてはお手頃でしょう。ちなみに前回はNHKさんの取材費で食べさせていただきました(笑)。
さらに北上して、片貝漁港近くに今年4月にオープンした「海の駅 九十九里」に寄りました。「海の駅」というのは「道の駅」のパクリか? と思っていましたが、意外や意外、すでに全国の海岸140箇所ぐらいに設置されています。
こちらには「いわし資料館」が併設されています。
かつてここには「いわし博物館」(入場無料)がありました。そちらの学芸員だった永田征子さんという方は、平成16年(2004)に、博物館で起きた天然ガスの爆発事故で亡くなりました。永田さんという方は、智恵子史跡の保存にも力を入れられていたそうで、そういうことに思いを馳せつつ拝観しました。
海の駅の2階から見た九十九里浜。雨はほぼやんでいましたが、やはり時化ていました。
さて、明日も九十九里ネタで書かせていただきます。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月27日
昭和13年(1938)の今日、詩「或る日の記」を書きました。
或る日の記
水墨の横ものを描きをへて
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕
墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些かの條件反射のあともない
その乾くのを待ちながら立つてみて居る
上高地から見た前穂高の岩の幔幕
墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド
作品は時空を滅する
私の顔に天上から霧がふきつけ
私の精神に些かの條件反射のあともない
乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練鬢髪為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列
このお化屋敷の板の間に波をうつ
私はそれを巻いて小包につくらうとする
一切の苦難は心にめざめ
一切の悲歎は身うちにかへる
智恵子狂ひて既に六年
生活の試練鬢髪為に白い
私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
そこにあるのは写真であつた
そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列
詩の下の画像が「水墨の横もの」、詩の右側の画像は大正2年(1913)、智恵子と婚前旅行に出かけた上高地で描いた油絵です。
詩は智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇です。この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。