先週土曜日、九段下の玉川堂さんで光太郎短歌の短冊、智恵子の実妹・セキ宛の書簡を拝見した後、九段下から都営新宿線に乗り、次なる目的地、新宿に向かいました。
中村屋サロン美術館さんで開催中の「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」を拝観するのが次の目的でした。
昨秋、開館の際の記念特別展「中村屋サロン―ここで生まれた、ここから生まれた―」、今春の「テーマ展示 柳敬助」に続き、3度目の来訪です。
斎藤と光太郎の主な接点は以下の通り。明治43年(1910)、光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で個展開催、さらに、大正元年(1912)には、光太郎、斎藤、岸田劉生等が中心となって、アンデパンダンの美術団体「ヒユウザン会」(のちに「フユウザン会」)を結成、といったところです。
それ以前に、斎藤も光太郎もパリ留学経験がありますが、明治41年(1908)、光太郎がロンドンからパリに移るのと同時期に斎藤は帰国。パリでは2人のつながりはなかったようです。その後、光太郎も帰国した明治42年(1909)には、ヒユウザン会展の元になるような会の結成を図る仲間として知り合っています。共通の友人だった碌山荻原守衛が橋渡しをしたと考えられます。斎藤はこの頃、中村屋サロンに出入りしており、もしかするとそこで初めて光太郎と出会ったのかも知れません。
さて、出品目録によれば、40点の斎藤作品が展示されています。
初期のフォービズムの影響を受けたものから、のちの童画風のものまで、なかなかバリエーション豊富。しかし、一本の筋が通っていると感じました。
大正元年の第一回ヒユウザン会展出品作の「木陰」も展示されており、つい1時間前に玉川堂さんで拝見した書簡がヒユウザン会展がらみのものだったので、不思議な縁を感じました。また、やはり1時間前に拝見した短冊が、斎藤の個展が開催された琅玕洞で販売されていたらしいというところにも。
「生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与里のまなざし」、来月27日までの開催です。ぜひ足をお運びください。
同展拝観後、同じ中村屋ビルの8階にあるレストラン「Granna」さんで早めの昼食。春に「テーマ展示 柳敬助」を見に行った際には満席&順番待ち行列で断念しましたので、リベンジです。今回は早めに行ったので大丈夫でした。中村屋純印度式カリーのコース3,000円+税のちょっと豪華なランチに舌鼓。その後、次なる目的地、文京区千駄木へ。以下、明日。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月25日
昭和25年(1950)の今日、雑誌『スバル』にアンケート回答「与謝野寛・晶子作中の愛誦歌」を発表しました。
「与謝野寛・与謝野晶子作の短歌中、特に愛誦さるるもの、若しくは御記憶に残れるもの。」という質問に対し、以下のように回答しています。
大空のちりとはいかがおもふべきあつき涙のながるるものを
先生のこのうたが今頭に出て来ました。
晶子女史のにはむろんたくさんあるのですが今うたの言葉を思ひ出しません。