東京から書道関連の学会情報です。
国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」
日 時 : 2015年9月12日(土)10:30~17:00
会 場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎134講義室(文京区大塚3-29-1)
会 場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎134講義室(文京区大塚3-29-1)
主 催 : 「書の資料学」実行委員会
共 催 : 筑波大学
共 催 : 筑波大学
参加費 : 無料 どなたでもご参加いただけます。参加をご希望の方は、事前に住所・氏名・電話番号(またはEメールアドレス)をFAX 029-853-2715へご連絡ください。
プログラム
受付 10:00~
受付 10:00~
開会挨拶 10:30~10:35
第1部 研究発表 10:35~12:05
明末における書体論の諸相 尾川明穂(安田女子大学助教)
松花堂昭乗筆『詠歌大概』(国文学研究資料館蔵)所収秀歌撰について 山口恭子(都留文科大学非常勤講師)
清代書法指南書の受容と展開 髙橋佑太(相模女子大学非常勤講師)
明末における書体論の諸相 尾川明穂(安田女子大学助教)
松花堂昭乗筆『詠歌大概』(国文学研究資料館蔵)所収秀歌撰について 山口恭子(都留文科大学非常勤講師)
清代書法指南書の受容と展開 髙橋佑太(相模女子大学非常勤講師)
第2部 基調講演 13:00~15:00
『石渠宝笈三編』に見る碑帖と碑学の関係についての初探 何炎泉(国立故宮博物院書画処副研究員兼科長)
書は人を以て伝う―趙孟頫書「絶交書」の考察 陳建志(国立故宮博物院書画処助理研究員)
『石渠宝笈三編』に見る碑帖と碑学の関係についての初探 何炎泉(国立故宮博物院書画処副研究員兼科長)
書は人を以て伝う―趙孟頫書「絶交書」の考察 陳建志(国立故宮博物院書画処助理研究員)
第3部 討議 15:15~17:00
司会 菅野智明(筑波大学教授)
登壇者 何炎泉 陳建志 家入博徳 矢野千載
登壇者提言
日本書論にみる中国書論の受容 家入博徳(國學院大学兼任講師)
高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について 矢野千載(盛岡大学教授)
登壇者提言
日本書論にみる中国書論の受容 家入博徳(國學院大学兼任講師)
高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について 矢野千載(盛岡大学教授)
お問い合わせ:〒305-8574つくば市天王台1-1-1 筑波大学芸術系 菅野研究室 TEL/FAX:029-853-2715
日中両国の研究者による書に関する研究発表、討議です。上記のとおり、盛岡大学の矢野千載(やのせんざい)教授による討議の提言「「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」があります。
宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑は、岩手花巻の羅須知人協会跡地に昭和11年(1936)に建てられました。光太郎が遺族の依頼で、「雨ニモマケズ」の後半部分を揮毫したものが刻まれている碑です。
この碑、それから作品としての「雨ニモマケズ」にはいろいろな問題があります。まず、賢治が手帳に記した段階で、「ヒドリノトキハ」と書いた部分が、現在では(というか、かなり早い時期から)「ヒデリノトキハ」となって流布している点、花巻の詩碑も、賢治の手帳通りではなく、後に光太郎が誤りに気付き、追刻がなされている点などです(それでもまだ手帳通りになっていません)。
「ヒドリ/ヒデリ」については、光太郎を改変の戦犯扱いする説がありますが、誤りです。
詩碑の追刻の件については、以前にこのブログで、昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著『山荘の高村光太郎』の記述を引用し、紹介しました。
また、昭和18年(1943)には、啄木研究家の川並秀雄に、次の書簡を送っています。
拝復、おてがみありがたく拝読いたしました、これまで其について質問をうけた事がないので、宮澤賢治詩碑碑面の不審がそのままになつてゐました、貴下によつて事情が明瞭になる事をよろこびます、
宮澤賢治さんのあの手帖は以前に草野心平君から示されて、その時「雨にもまけず」の鉛筆がきをよみ、感動いたしましたが、手帖はやがて国元へかへり、字句は忘れてゐました、
その後国元の令弟宮澤清六さんから碑詩揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取つた詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、
さて後に拓本を見ると、あの詩の印刷されたものにある、「松の」がぬけてゐたり、其他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿をみると、その原稿には小生のバウがボウであり、小生のサウがソウであつた事を又発見しました、
つまり清六さんが書写の際書き違つた上に、小生が又自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違へてゐた事になります、甚だ疎漏であつた事を知りましたが、既に彫刻の出来てしまつたあとの事でありましたため、そのままにいたしました、
碑面の不審は右のやうな当時の事情で起つた次第、よろしく御解明なし置き下さらば、由来がはつきりして今後の研究者の無駄な考慮や疑問がはぶかれる事となりませう、その点をよろこびます、
貴下の細心な研究精神をまことにありがたき事と存じ、早速右御返事まで申上げました、
艸々
昭和十八年七月十四日 高村光太郎
川並秀雄様 侍史
これを読むと、『山荘の高村光太郎』の記述ともまた異なり(『山荘の……』では、戦後になって初めて碑文が誤っていることに気付いたように書かれています)、さらに他の人物の回想ではまた違ったニュアンスのエピソードも紹介されていたりします。
今回の矢野氏の「提言」では、こういった話に触れられるのではないかと思われます。
興味のある方、ぜひどうぞ。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月21日
昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村に初めて足を踏み入れました。
当日の日記から。
晴、暑 太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。信一郎、清一郎君落合ふ。二ツ関下車徒歩五十分。午後勝治君の案内にて地所検分、選定。部落会長宅に挨拶にゆく。小屋を勝治氏に一任。五時十二分二ツ関よりかへる。
8月10日の花巻空襲で、疎開していた宮澤家を焼け出された光太郎、旧制花巻中学校長・佐藤昌の家に厄介になっていました。終戦の2日前、山口分教場の教師だった佐藤勝治に勧められ、太田村移住を計画、この日の下見になったわけです。太田村に住み始めたのは10月17日のことでした。