神奈川県平塚市美術館さんで開催中の企画展です。
生誕100年記念 写真家 濱谷浩展
期 日 : 2015 年7 月18 日(土) ~ 9月6 日(日)
会 場 : 平塚市美術館
時 間 : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)
会 場 : 平塚市美術館
時 間 : 9:30 ~ 18:00( 入場は17:30 まで)
※9 /1(火)以降9:30 ~ 17:00( 入場は16:30 まで)
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
料 金 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
※( ) 内は20 名以上の団体料金
※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
休館日 : 月曜日( ただし7 /20 は開館、7/21は休館)
料 金 : 一般200(140) 円、高大生100(70) 円
※( ) 内は20 名以上の団体料金
※中学生以下、毎週土曜日の高校生は無料
※各種障がい者手帳をお持ちの方と付添1 名は無料
※65 歳以上で、平塚市民の方は無料、市外在住の方は団体料金
主 催 : 平塚市美術館 神奈川県平塚市西八幡1-3-3
特別協力 : 濱谷浩写真資料館
特別協力 : 濱谷浩写真資料館
このたび平塚市美術館では世界的に著名な写真家濱谷浩の生誕100 年を記念した展覧会を開催します。
濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。
濱谷浩(はまやひろし:1915-1999)は東京下谷で生まれ、後年は大磯に居を構えた日本を代表する写真家です。15 歳のときに父の友人からカメラを贈られたことをきっかけに写真に情熱を傾けるようになった濱谷は、高校卒業後に銀座のオリエンタル写真工業に勤め、本格的に写真の技術や知識を身に付けると、まもなくフリーランスのカメラマンとして活動を始めました。1939(昭和14)年に雑誌の取材で新潟県の高田市を訪れ、雪国の厳しい風土とそれに立ち向かう人々の営為に感銘を受け、以降、日本の風土と人間の関係を突き詰めた写真を撮影するようになります。
その後、高度成長期を迎えた日本においてテレビが普及し、報道の機動性、速報性、同時性などの面でその影響力が増していく中で写真表現の可能性を模索した濱谷は、エヴェレストをはじめ世界に残された自然の撮影を開始します。
人間の生を深く洞察し、大自然の極限の様相に迫るカメラワークは国内外で高く評価され、1987(昭和62)年写真界のノーベル賞と称される「ハッセルブラッド国際写真賞」を受賞しました。
本展では、大きく変動する昭和という時代に生き、カメラを通して「人間が生きるとは何か」ということを真摯に問いかけた濱谷の軌跡をご紹介します。
濱谷浩(はまや ひろし)は大正4年(1915)生まれの写真家。日本の風土に生きる人々を撮り続け、特に「裏日本」を題材にした写真が有名です。また、肖像写真も多く手がけ、昭和58年(1983)には、光太郎を含む学者、芸術家100名ほどのポートレートをまとめた『學藝諸家』という写真集を出版しています。
昭和25年(1950)1月1日発行の『アサヒカメラ』第35巻第1号に、濱谷による光太郎が暮らす山小屋訪問記「孤独に生きる 高村光太郎氏を岩手県太田村に訪ねて」が掲載されました。ちなみに表紙は木村伊兵衛撮影のヴァイオリニスト・諏訪根自子です。
グラビアとして写真が8葉、長文の訪問記も、光太郎書簡や贈られた短歌などを引きつつ、興味深い内容です。写真はどれも、厳しい山居生活の側面を写し取り、すばらしいものです。上記の手の肖像は、肥後守の小刀で、鰹節を削る光太郎の手です。想像ですが、何か彫っているところを撮りたい、という濱谷のリクエストに、戦時の反省から彫刻封印の厳罰を自らに科していた光太郎が、彫刻刀で木を彫るところではなく、小刀で鰹節を削る様子を撮らせたのではないかと思います。
さて、ここに収められた写真が、平塚市美術館さんの「生誕100年記念 写真家 濱谷浩展」にも並んでいるとのこと。情報を得るのが遅れ、紹介が遅くなりました。濱谷は晩年は平塚に住んでいたとのことで、平塚市美術館さんでの開催です。
ちなみに、疎開などでやはり濱谷と縁の深い新潟・長岡市の新潟県立近代美術館さんでも、「生誕100年 写真家・濱谷浩」展を開催中です。ただ、こちらは光太郎の肖像写真が展示されているかどうか不明です。情報をお持ちの方、こちらまでご教示いただければ幸いです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月17日
昭和40年(1965)の今日、詩人の高見順が歿しました。
高見は明治40年(1907)の生まれ。自分よりはるかに若い詩人たちをかわいがった光太郎に気に入られ、昭和25年(1950)に刊行された高見の詩集『樹木派』の題字を揮毫したり、最晩年の昭和30年(1955)には雑誌『文芸』のため、高見との対談「わが生涯」を行ったりしています。
詩集『樹木派』の題字は、現在も公益財団法人高見順文学振興会さんの会報に使われているそうです。