昨日は終戦記念日でした。戦後70年ということもあり、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。この国が二度と戦争に荷担することの無いようにするためにも。

さて、それに伴い、光太郎の名も新聞各紙に引用されています。少し前には仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さんで「戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念」という記事を載せて下さいました。

また、『毎日新聞』さんには、8月13日に以下の記事が載りました。

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「銃後のくらし:戦後70年/4 婦人標準服 「興亜の精神」美しさ消え」という記事です。長いので全文は引用しませんが、戦時中の物資欠乏を受け考案された「婦人標準服」について書かれています。

和服は非常時に動きにくいし、贅沢。洋服も「米英の模倣」と敵視され、そこで考え出されたのが和服でもなく洋服でもない「婦人標準服」。布地の節約のため、着物を仕立て直した洋服タイプの「甲型」、和服タイプの「乙型」、もんぺ・スラックスの「活動衣」の3種類が推奨されたそうですが、このうちの「甲型」の評判はさんざんだったそうです。曰く「「洋服と和服のちゃんぽんで、格好悪かった。両方の美しさを消す服だった」。着物専門学校「清水学園」(東京都渋谷区)理事長の清水ときさん(91)は眉をひそめた。」。

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記事ではここで光太郎に言及されます。

彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)は「家庭週報」(43年6月)への寄稿で、「新しい美を此(こ)の服式から創出し得る」とし、標準服を持ち上げている。

調べてみると、「服飾について」という散文でした。問題の箇所は以下の通り。

 一切の美の根源は「必要」にある。いかなるものが美かと考へる前に、いかなるものが必要かと考へる方が早いし確実である。今日の戦時生活にはモンペ短袖は必要である。それ故モンペ短袖は必ず美であり得る。昨日の美を標準とする眼を新にすれば、目がさめたやうに新しい美を創り出すことができる。又平常服としての女子標準服も資材の節約上必要である。それ故此の標準服も美であり得る。強い魅力を持つ新しい美を此の服式の範疇から創出し得る。

こういう部分でもプロパガンダとして光太郎が期待された役割、果たした役割は大きかったと思います。しかし「創出し得る」ということは「まだ創出されていない」ということではありますが、それにしても上記の画像を見て、ここから「美」が創出できるとは思えませんが……。


もう1件、『毎日新聞』さんでは今日の読書面に光太郎がらみの記事が載りました。文芸評論家の加藤典洋氏による「今週の本棚・この3冊:終戦」の中に、吉本隆明の『高村光太郎』が紹介されています。  

今週の本棚・この3冊:終戦 加藤典洋・選

<1>太宰治全集8(太宰治著/ちくま文庫/1188円)
<2>高村光太郎(吉本隆明著/講談社文芸文庫/品切れ)
<3>戦時期日本の精神史 1931〜1945年(鶴見俊輔著/岩波現代文庫/1274円)
 終戦、またの名を敗戦。それは戦争の終わりであり、同時に、戦後のはじまりでもある。

 終戦前後を描く白眉(はくび)の短編は、<1>所収の「薄明」だ。空襲で甲府まで逃げる途中、幼い娘が眼病で目が見えなくなる。そして数日。猛烈な空襲の後、ようやく、娘の目があく。小説家の父親が家の焼け跡を見せに連れていく。「ね、お家が焼けちゃったろう?」「ああ、焼けたね。」と子供は微笑している、と小説家は書いている。私には、これが八月一五日をはさんで、一時的に失明した女の子が、戦後のはじまりに回復し、ほほえむ小説として読めた。『敗戦後論』に引いたが、もっとも美しい「戦争の終わり」と「戦後のはじまり」を描く短編だと今も考えている。<1>全体は太宰治の敗戦直後の作品を集めた一冊。収録の短編はどれもこれもすばらしい。

 戦後、誰もが戦時中に間違わないで正しい振る舞いをした人について書いたとき、例外的に間違いに間違った人を取りあげ、なぜこの人を自分は信じるに足る人として読み続けたのかと、自分の誤りをみつめて書いたのが<2>。そのなかの章「敗戦期」で、著者吉本隆明は敗戦直後、尊敬する高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にするのを見て、その立ち直りの早さに、はじめて違和感をおぼえた、と書いている。それが彼のただひとりで歩む戦後の起点となる。吉本は、自分は皇国少年で、間違った、と述べ、戦後そのことを足場に考えた絶対的少数派だった。

 <3>は戦時期の日本について、戦後のことを何一つ知らない外国の学生に英語で講義したものを、著者がその後、日本語で口述してなった。戦争と日本人についてもっともコンパクトな見取り図がえられる。その一章「戦争の終り」では、終戦の日の天皇の玉音放送を聞く日本人に対する当時軽井沢に軟禁されていたフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランの観察が取りあげられている。放送が終わると、人びとは感情を押し殺すように押し黙り、姿を隠した。ギランを驚かせたのは、これまで降伏よりは死を選ぶ覚悟をもっていた日本人が、「いまや天皇とともに回れ右をし」、「翌日から」、自分やほかの白人たちに「明るい笑みを見せて挨拶(あいさつ)したこと」だった。

 私は、この鶴見俊輔の講義をカナダで贋(にせ)学生として聞いた。戦後七〇年もたてば無理もないが、みんな退場する。そしてコトバが残る


講談社現代文庫版の単行書『高村光太郎』として取り上げられていますが、昨年刊行された『吉本隆明全集5[1957‐1959]』に件の論考が収められています。

高村光太郎が、早くも、精神の武器を手に立ち上がろう、と希望のコトバを口にする」は、昭和20年(1945)、終戦の2日後に発表された詩「一億の号泣」に典拠します。詩の終末部分の「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす/真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」です。

戦時の光太郎の詩文を注意深く読むと、「鋼鉄の武器」で鬼畜米英を殲滅せよ、というようなジェノサイド的発言はほとんどなく、「精神の武器」で闘おう、といった内容が多く見られます。そういう意味では吉本の指摘のように、敗戦直後に突如としてそういう方向に行ったわけではありません。しかし、当時、全ての光太郎詩文をチェックしていたわけでもない吉本にとってこの発言は違和感を覚えるものだったのでしょう。

リアルタイムを生きた吉本の論考、この際に改めて読み解くべきかと思います。

「一億の号泣」については、70年前にそれが掲載された『岩手日報』さんでも、昨日の一面コラムにて取り上げて下さいました。

風土計 2015.8.15

「綸言(りんげん)一たび出でて一億号泣す。/昭和二十年八月十五日正午、」という書き出しの詩が1945年8月17日付の本紙に載った▼作者は、花巻に疎開していた高村光太郎。玉音放送を聞くために神社に出掛け、天皇の声に接した。国防色の粗末な服を身にまとい、両手を畳の上について聞き終わった後は、無言で静かに立ったという。失意の姿が目に浮かぶ▼太平洋戦争開戦を詠んだ作品もある。「記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史あらたまる。/アングロ・サクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。」と始まる。戦争の大義を信じて高揚した思いが伝わる▼光太郎には他にも戦争をうたった詩が数々ある。鼓舞するような内容だ。そんな姿勢に対して戦後、批判が相次いだ。本人は山小屋で独居自炊の生活を送りながら、戦争に協力したことと向き合ったという▼自己責任を問うことを避けた文学者は多くいる。そんな中、戦時中の言動を批判されても「自己を弁護するようなことはせず、正面からそれを受け止めた」(岡田年正著「大東亜戦争と高村光太郎」)姿勢は、評価されていいのではないか▼8月15日の敗戦の日は言論界に深く刻印された。もちろんジャーナリズムにおいても。反省を踏まえて新たに出発した日の決意を忘れてはなるまい。


やはりリアルタイムを生きた光太郎の詩文も、この際に改めて読み解くべきかと思います。

最初にも書きましたが、各メディアでは例年より多く、戦争について特集を組んだりしています。こうした動きが一時のことで終わらず、継続されてほしいものです。ただ、散見されるのですが、それを美化につなげようとしたり、一種の「戦後70年ブーム」に乗り遅れまいと、とんちんかんな引用をしたお粗末な作りだったりでは困るのですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、詩「蒋先生に慙謝す」の執筆に取り組みました。

当日の日記の一節です。

午后詩「蒋先生に慙謝す」書きかける。

「蒋先生」は蒋介石。その激しい抗日思想に対し、戦時中の昭和17年(1942)には「沈思せよ蒋先生」という詩を書いた光太郎。戦後になって、それと対を為す詩篇として作りました。しかし、なかなか書き上がらず、結局、完成したのは9月30日でした。

    蒋先生に慙謝す
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わたくしは曾て先生に一詩を献じた。
真珠湾の日から程ないころ、
平和をはやく取りもどす為には
先生のねばり強い抗日思想が
厳のやうに道をふさいでゐたからだ。
愚かなわたくしは気づかなかつた。
先生の抗日思想の源が
日本の侵略そのものにあるといふことに。
気づかなかつたとも言へないが、
国内に満ちる驕慢の気に
わたくしまでが眼を掩はれ、
満州国の傀儡をいつしらず
心に狎れて是認してゐた。
人口上の自然現象と見るやうな
勝手な見方に麻痺してゐた。

天皇の名に於いて
強引に軍が始めた東亜経営の夢は
つひに多くの自他国民の血を犠牲にし、
あらゆる文化をふみにじり、
さうしてまことに当然ながら
国力つきて破れ果てた。
侵略軍はみじめに引揚げ、
国内は人心すさんで倫理を失ひ、
民族の野蛮性を世界の前にさらけ出した。
先生の国の内ではたらいた
わが同胞の暴虐むざんな行動を
仔細に知つて驚きあきれ、
わたくしは言葉も無いほど慙ぢおそれた。
日本降伏のあした、
天下に暴を戒められた先生に
面の向けやうもないのである。

わたくしの暗愚は測り知られず、
せまい国内の伝統の力に
盲目の信をかけるのみか、
ただ小児のやうに一を守つて、
心理を索める人類の深い悩みを顧みず、
世界に渦まく思想の轟音にも耳を蒙(つつ)んだ。
事理の究極を押へてゆるがぬ
先生の根づよい自信を洞察せず、
言をほしいままにして詩を献じた。
今わたくしはさういふ自分に自分で愕く。
けちな善意は大局に及ばず、
せまい直言は喜劇に類した。
わたくしは唯心を傾けて先生に慙謝し、
自分の醜を天日の下に曝すほかない。


先頃発表された、主語のない「談話」などよりも、ぐっと来るものがありますね。