今週の月曜日に載った、福島の地方紙『福島民報』さんの一面コラム「あぶくま抄」です。限定公開されている二本松市の智恵子生家について言及して下さいました。
智恵子が過ごした部屋(8月10日)
〈如何[いか]なる場合に処するにも ただ一つの内なるこえ たましいに聞くことをお忘れにならないよう…〉。詩人の高村光太郎の妻智恵子が、40歳のころに書き残したとされる。
二本松市にある智恵子の生家が特別公開されている。普段は入れない2階の智恵子の居室や光太郎の過ごした部屋、杜氏[とうじ]の寝室などが見られる。明治16(1883)年、酒造業の家屋として建てられた。この四畳半で時代の先端を行く気質が育まれたのかと、しばし感じ入る。裕福だった生家は後に経営が行き詰まり破産する。智恵子も精神を病む。
光太郎が「智恵子抄」を出版したのは昭和16(1941)年の8月だ。12月に日本は太平洋戦争に突入するが、詩集は3年間で13刷を重ねる。戦時下で死が日常だった若者は、光太郎のように愛し、智恵子のように愛されることを願った(二本松市教委刊「高村智恵子-その愛と美の軌跡」)。
戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。戦争協力の行為を弁明するでもなく、「内なるこえ」に耳を澄ませた。心の中の智恵子と暮らすことは本望だったのだろう。
二本松市にある智恵子の生家が特別公開されている。普段は入れない2階の智恵子の居室や光太郎の過ごした部屋、杜氏[とうじ]の寝室などが見られる。明治16(1883)年、酒造業の家屋として建てられた。この四畳半で時代の先端を行く気質が育まれたのかと、しばし感じ入る。裕福だった生家は後に経営が行き詰まり破産する。智恵子も精神を病む。
光太郎が「智恵子抄」を出版したのは昭和16(1941)年の8月だ。12月に日本は太平洋戦争に突入するが、詩集は3年間で13刷を重ねる。戦時下で死が日常だった若者は、光太郎のように愛し、智恵子のように愛されることを願った(二本松市教委刊「高村智恵子-その愛と美の軌跡」)。
戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。戦争協力の行為を弁明するでもなく、「内なるこえ」に耳を澄ませた。心の中の智恵子と暮らすことは本望だったのだろう。
生家二階部分の限定公開、10月から11月の菊人形期間、来年2月にも予定されていますが、8月は23日までの土日、つまり8/15・16・22・23です。ぜひとも智恵子の息吹を感じて下さい。
「戦意高揚で書き連ねた詩を恥じ、光太郎は疎開した岩手県花巻市郊外の粗末な小屋に戦後も住み続ける。」とあるように、光太郎の息吹を感じるなら、花巻郊外の高村山荘、高村光太郎記念館です。
花巻観光協会さんで作った新しいチラシがこちら。
同じ花巻市にある宮沢賢治記念館さんもこの春にリニューアルオープンしています。
ぜひ足をお運び下さい。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月14日
昭和22年(1947)の今日、東京女子高等師範学校に勤務していた椛沢ふみ子に長い書簡を書きました。
椛沢ふみ子(佳乃子)はたびたび花巻郊外太田村の山小屋を訪れ、地元の皆さんとも親しく交流しました。以前にご紹介した高橋愛子さんも椛沢に茶道を習ったそうで、花巻高村光太郎記念館の受付で配布されているリーフレット「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」に記述があります。
書簡の最後には、「紀州の人からクマ蟬のモデルを送つてもらひました。秋には此を彫ります。」とあります。「紀州の人」は俳人の東正巳。この月6日付けの東宛てのはがきには、以下の記述があります。
待望のクマゼミ到着、感激に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧できなかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。
しかし、結局、この彫刻は完成せずに終わったようです。日記にも詳細な記述がなく、着手もしなかったかもしれません。それでいて書簡では蟬を彫ると明言しているのは、光太郎の蟄居生活を案じる周囲へのポーズなのでしょうか。