宮城女川レポートの最終回です。
8月10日、前日の第24回女川光太郎祭を終え、千葉の自宅兼事務所に戻りましたが、女川を出る前に、やはり石碑を二つ見てから発ちました。
続いて、前日同様、女川港から国道398号で、東の方に。この碑を見に行ってきました。
国道沿いにあって、前日も脇を通りましたが、その時は何か古い石碑があるなと思っただけで通り過ぎていました。それが、光太郎祭を主催されている女川光太郎の会の佐々木英子さんのお店・佐々木釣具店で読んだ地元紙『石巻かほく』に、この碑に関する記事が載っており、これはもう一度ちゃんと見に行かなければ、と思った次第です。
記事はこちら。ネット上にもアップされていました。
戦後70年 伝える(2) 女川空襲 元駅員、町訪れ体験語る
戦後70年 伝える(2) 女川空襲 元駅員、町訪れ体験語る
太平洋戦争で沿岸防衛の拠点の一つだった女川町の女川港。1945年8月10日、連合国軍の激しい空襲を受けた。
石巻市桃生町出身の須藤良輝さん(87)=広島県福山市在住=は当時、女川駅の駅員として空襲に遭遇した。「女川の人たちにはかわいがってもらった。生きているうちに自分の経験を伝えたい」。5日、女川町を訪れ、住民に体験談を語った。
◇
8月9日の朝。警報が鳴らないのに、見たことのない双胴機が上空を飛んだ。後から考えれば、空襲の偵察だったのだろう。
10日午前8時ごろ、空襲警報が鳴り響いた。艦載機が5機編隊で10分おきに来た。湾内の掃海艇や海防艦に波状攻撃が続いた。超低空飛行だったので、日本軍の砲撃はかわされた。
駅員は駅舎内に退避し、戦況を見守っていた。午後2時を過ぎると、攻撃目標が駅周辺に変わった。ホームにナパーム弾が投下された。オイルを保管していたドラム缶が火を噴きながら上空に飛ばされ、屋根を突き破った。
駅長が町役場裏の防空壕(ごう)に退避するよう指示した。男性が女性の手を引き、500メートル先の壕を目指した。3分の1ほど走ったところで、後ろから爆音が聞こえた。2人で叫びながら伏せた。
振り向くと戦闘機が迫っていた。航空士の若い男の顔が見えた。機銃掃射され、目の前にやっきょうが飛び散った。あの恐ろしさは忘れられない。
午後4時を過ぎると、空爆はピタリとやんだ。
港は全滅だった。2隻の掃海艇は船首しか見えず、漁船を含む多くの船が沈んだ。海軍の宿舎5棟は倒壊。駅前広場は250キロ爆弾で巨大な穴が開いていた。
◇
須藤さんは空襲体験をまとめた手記を町に寄贈したことはあるが、実際に体験を語ったのは今回が初めて。集まった住民に対し、「戦争の悲劇を子どもや孫に語り継いでほしい」と涙ながらに訴えた。
東日本大震災の2カ月後にも女川を訪れた。「気になって仕方がなかった。がれきだらけの町を見て、写真を撮ることもできなかった」と振り返る。
「年齢を考えれば、女川に来るのはこれが最後だろう」と須藤さん。「復興を果たし、かつてのような活気のある港町に戻ってほしい」と願った。
■女川空襲
女川防備隊が置かれるなど日本海軍の基地となっていた女川港は1945年8月、連合国軍の空襲を受けた。軍関係者ら200人以上が死傷。江島でも住民19人が死亡した。日本軍に撃墜されたグレー大尉はカナダ人の第2次大戦最後の戦死者で、町内に記念碑がある。
女川防備隊が置かれるなど日本海軍の基地となっていた女川港は1945年8月、連合国軍の空襲を受けた。軍関係者ら200人以上が死傷。江島でも住民19人が死亡した。日本軍に撃墜されたグレー大尉はカナダ人の第2次大戦最後の戦死者で、町内に記念碑がある。
女川に空襲があり、多数の方が亡くなったということを、当方、寡聞にして存じませんでした。しかも昭和20年(1945)8月10日。まさに光太郎祭翌日、当方が千葉に帰る日です。そういうわけで、もう一度行き、線香を手向けて参りました。当方の愛車には、なんや かやで行った先で墓参をすることが多いので、常に線香が積んであるのが役に立ちました。
先客がいて、香華をお供えしていました。関係者の御子孫でしょうか。
それにしても、昭和20年(1945)8月10日という日付には二重に驚きました。岩手花巻の宮澤家で、光太郎が2度目の被災となった花巻空襲も同じ日だったためです。もしかして同じ艦艇から飛び立った艦載機によるものではないかと思い、調べてみましたが、花巻は米軍艦載機、女川は英軍艦載機と、異なっていました。前日にはご存じの通り、長崎に原爆が投下されましたし、岩手釜石には艦砲射撃が行われています。もはやこの時期の日本はやられ放題だったわけですね。
今年は戦後70年。前日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の様子を、きぼうのかね商店街の食堂で昼食を摂りながら見ましたが、もう一度この国を戦争の出来る国にしようとする輩が、「返れ!」とヤジを受けながら空疎なスピーチをしているのを聴き、暗然とした思いになりました。泉下の光太郎はどのような思いでこの国を見ているのでしょうか……。
女川レポートを終わります。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月12日
大正2年(1913)の今日、智恵子が福島の実家に金銭の無心をする手紙を書きました。
一部、抜粋します。
こんどといふこんどこそは、何がなんでもいゝ絵をかいて そして生活をしてゆかなければ 私はかうしてはゐられないのですから
どうぞたすけると思召して こんどだけ暫くの間御都合下さいます様 偏に御願ひ申しあげます
これは何につかふのでもありません ずつと前からも申しあげました通り 文部省の展覧会に出しますか また大阪の方で個人展覧会をいたしますか 何れにしましてもそれ等の絵を売りました上にすぐご返済申し上げます
恋する女の一念、ある意味、恐ろしいです(笑)。