仙台に本社を置く地方紙、『河北新報』さん。先週、以下の記事が載りました。
先月中頃でしたが、記事を書いた記者氏から電話があり、記述のある「わが詩をよみて人死に就けり」についてレクチャーし、その際に7/26の紙面に載ると聞きました。そこで仙台在住の息子に頼んで取り寄せました。6月に当方も紹介された『朝日新聞』さんの東北版を送れ、と頼んだところ、忘れやがった抜け作の息子ですが、今回はしつこくメールしたので、大丈夫でした(笑)。
ただし、「この封筒に入れてポストに投函せよ」と、140円切手を貼った封筒を送ったところ、料金不足でゴタゴタしました。抜け作の父でした(笑)。
毎週日曜日の文化面に掲載されている「戦災の記憶を歩く 戦後70年」という連載で、花巻市の高村山荘が取り上げられています。
戦災の記憶を歩く 戦後70年 ⑧高村山荘(花巻市) 戦意高揚に自責の念
「智恵子抄」などの詩で知られる高村光太郎(1883~1956年)が終戦後、1945年から7年間を過ごした建物が花巻市西部の太田地区にある。
高村山荘。静かな山村に立つ。木造平屋。約5㍍四方で、土間と板の間からなる簡素な造りだ。高村が使った机やランプ、いろりなどが今も残る。
高村は45年5月、宮沢賢治の弟清六を頼り、東京から花巻に疎開。宮沢家が空襲に遭い、知人の勧めで太田地区に移り住んだ。
地区に住む高橋愛子さん(83)は当時、農作業のため山荘のそばにある畑に毎日通い、高村の暮らしぶりを間近で見てきた。
「偉い先生がなんで、こんな所で大変な思いをして住んでいるのか、不思議だった」と振り返る。
雪をかぶる布団
地区の冬は厳しい。山荘の間仕切りは障子一枚しかない。室内の布団が雪をかぶることもあったという。
山荘での暮らしを、高村は自ら「自己流謫(るたく=罪のため遠くに流されること)」と称した。戦時中、戦意を高揚する詩を数多く発表したことに自責の念を抱き、進んで厳しい環境に身を置いたのだった。
「われら自ら力を養ひてひとたび起つ/老若男女みな兵なり/大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ」
41年作の「十二月八日」の一節だ。「愛の詩人」と称された高村には、似つかわしくない言葉が並ぶ。
山荘で暮らした7年で、高村は詩を多く残した。
「暗愚小伝」は当時の代表作の一つ。幼少期から戦後に至る自己批判を中心とする連作詩だ。構想段階で書いた詩「わが詩をよみて人死に就けり」から、高村の思いが読み取れる。
「死の恐怖から私自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた/その詩を戦地の同胞がよんだ/人はそれをよんで死に立ち向かつた」
地区の子と交流
試作に励む傍ら、高村は地区の子どもらと交流を深めた。地区の山口小(現在の太田小)を頻繁に訪れ、開校式で祝辞を述べたり、学芸会に参加したりした。新刊の辞典を寄附するなど支援も惜しまなかった。
太田地区山関行政区で区長を務める高橋征一さん(72)は幼少時、山口小に通った一人。学校で何度も高村と接し、山荘で掃除を手伝ったこともあった。
「大人になって、光太郎先生の伝えたかったことが分かった。平和な世の中で、子どもたちが文化的で心豊かに育ってほしいと願ったのでしょう」と話す。
反戦、平和を声高に訴えることはなかったという高村だが、48年に作った詩「新年」にこう記した。「世界に戦争の来ませんやうに(中略)われら一人一人が人間でありますやうに」。
流謫の末に見出した、切なる願いに違いない。
高村山荘。静かな山村に立つ。木造平屋。約5㍍四方で、土間と板の間からなる簡素な造りだ。高村が使った机やランプ、いろりなどが今も残る。
高村は45年5月、宮沢賢治の弟清六を頼り、東京から花巻に疎開。宮沢家が空襲に遭い、知人の勧めで太田地区に移り住んだ。
地区に住む高橋愛子さん(83)は当時、農作業のため山荘のそばにある畑に毎日通い、高村の暮らしぶりを間近で見てきた。
「偉い先生がなんで、こんな所で大変な思いをして住んでいるのか、不思議だった」と振り返る。
雪をかぶる布団
地区の冬は厳しい。山荘の間仕切りは障子一枚しかない。室内の布団が雪をかぶることもあったという。
山荘での暮らしを、高村は自ら「自己流謫(るたく=罪のため遠くに流されること)」と称した。戦時中、戦意を高揚する詩を数多く発表したことに自責の念を抱き、進んで厳しい環境に身を置いたのだった。
「われら自ら力を養ひてひとたび起つ/老若男女みな兵なり/大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ」
41年作の「十二月八日」の一節だ。「愛の詩人」と称された高村には、似つかわしくない言葉が並ぶ。
山荘で暮らした7年で、高村は詩を多く残した。
「暗愚小伝」は当時の代表作の一つ。幼少期から戦後に至る自己批判を中心とする連作詩だ。構想段階で書いた詩「わが詩をよみて人死に就けり」から、高村の思いが読み取れる。
「死の恐怖から私自身を救ふために/『必死の時』を必死になつて私は書いた/その詩を戦地の同胞がよんだ/人はそれをよんで死に立ち向かつた」
地区の子と交流
試作に励む傍ら、高村は地区の子どもらと交流を深めた。地区の山口小(現在の太田小)を頻繁に訪れ、開校式で祝辞を述べたり、学芸会に参加したりした。新刊の辞典を寄附するなど支援も惜しまなかった。
太田地区山関行政区で区長を務める高橋征一さん(72)は幼少時、山口小に通った一人。学校で何度も高村と接し、山荘で掃除を手伝ったこともあった。
「大人になって、光太郎先生の伝えたかったことが分かった。平和な世の中で、子どもたちが文化的で心豊かに育ってほしいと願ったのでしょう」と話す。
反戦、平和を声高に訴えることはなかったという高村だが、48年に作った詩「新年」にこう記した。「世界に戦争の来ませんやうに(中略)われら一人一人が人間でありますやうに」。
流謫の末に見出した、切なる願いに違いない。
メモ 高村山荘は保存のため、太田地区の住民と花巻高村光太郎記念会(旧高村記念会)がそれぞれ作った上屋で、二重に覆われている。午前8時半~午後4時半、有料で内部を見学できる。隣接地に市営の高村光太郎記念館がある。連絡先は総合案内所0198(28)2270。
文 生活文化部・肘井大祐 写真も
読んでおわかりだとは存じますが、単なる観光案内の記事ではなく、太平洋戦争とのからみで光太郎の内部世界をよく省察した内容となっています。
高村山荘。行くたびに粛然とした気持ちにさせられますが、単に光太郎が住んでいた小屋、というだけでなく、ここでの7年間が「自己流謫」の日々だったことに思いを馳せざるを得ないからです。
6月のこのブログでご紹介した高橋愛子さんがご登場。
それから後半に談話が載っている高橋征一さんは、先だっての花巻市太田地区の皆さんと、十和田湖関係者の方々の交流会にご参加なさっていました。
戦後70年。あの戦争とは何だったのか、考えるいい契機になります。夏休みということもあり、ぜひ若い世代を交えたご家族で、高村山荘、隣接する4月にリニューアルオープンした高村光太郎記念館、足を運んでいただきたいものです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月5日
昭和24年(1949)の今日、筑摩書房から『印象主義の思想と芸術』が復刊されました。
オリジナルは大正4年(1915)。「筑摩選書」の一冊としての復刊です。