一昨日から昨日にかけ、1泊2日で青森に行って参りました。今日明日明後日でレポートいたします。
一昨日、東京駅発10時20分のはやぶさ13号(この列車を利用することが多々あります)に乗り込み、目指すは新青森駅です。そもそもの第一目的は、昨日行われた岩手県花巻市太田地区振興会の皆さんと、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流会に参加することでしたが、ついでに現地調査を、と考えておりました。
13時30分には、新青森駅に到着。予約していたレンタカーを借り、まずは青森市民図書館さんに向かいました。こちらには、地元紙『東奥日報』のマイクロフィルムが揃っており、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)の関係で光太郎が青森を訪れた際の記事などを調べるのが目的でした。1年前には青森県立図書館さんに行き、昭和28年(1953)乙女の像除幕前後の記事などはコピーしてきたのですが、その時は時間がなく、昭和27年(1952)に、十和田湖の下見に行った際の記事などを調べることができませんでしたので、今回はそのリベンジでした。
乙女の像の建立は、当時の青森県知事にして太宰治の実兄、津島文治の肝煎りだったためか、下見の際にも記事が何度も出ていました。同行した草野心平の寄稿なども載っていました。
さらに像の制作にかかっている最中の、昭和28年(1953)元日の紙面には、東京支局の記者による中野のアトリエ訪問記。こちらには光太郎の長い談話も収録されています。
また、見出しには「乙女」の語。「乙女の像」という通称がいつ頃から使われるようになったのか、実は不明です。除幕された昭和28年(1953)10月の段階で、光太郎自身が青森市の野脇中学校で行った講演の中に、「乙女の像」の語が既に使われていますが、その源流がここに見えるように思いました。今回の談話の中には、以下の記述があります。
大体自然を性で区別すれば湖というのは女性になるが、十和田湖の場合は乙女ともいうべきもので本当に『聖』そのものだ。
湖の景観の中に、光太郎は「乙女」の姿を見ていたのです。
ただし、「乙女の像」という語は、固有名詞ではなく、一種の普通名詞―「騎馬像」「仁王像」のように、像のジャンルを表す語―として、光太郎以外の彫刻家による若い女性の像全般に使われていた形跡もあり、はっきりしたことは何とも言えません。この前後、各地に「××の乙女の像」といった彫刻がいくつか見られるのです。ただ、現代ではそれらの大半は忘れ去られており、光太郎の「乙女の像」と他にあとわずかのみが生き残っているという感じです。
さて、青森市民図書館さんでの調査を終え、次に向かったのは同じ青森市の浅虫温泉。市中心部から東に15㌔㍍ほどのところにある温泉地です。
ここにあった「東奥館」という旅館に、光太郎が宿泊しました。十和田湖下見の際の昭和27年(1953)に1泊、乙女の像除幕の際の昭和28年(1953)には3泊しています。東奥館自体は既に無くなっていることは事前にネットで調べて分かっていましたが、とりあえず光太郎の滞在した場所ですので、その息吹が感じられるかと思い、行ってみました。
浅虫温泉は、陸奥湾沿いに開けた温泉地です。大正5年(1916)、竹久夢二が文通していた青森の少女と逢うためここを訪れたとのことで、夢二の歌碑が建っていました。
さて、めざす「東奥館」という旅館が何処にあったのか、わかりません。そこで聞き込みを開始。まずは現代風のホテルの前で、宿泊客の車の誘導に当たっていた男性に尋ねましたが、解りませんでした。「こういうことなら古くからここに住んでいそうな人に訊くのがよかろう」と思い、目についた和菓子屋に入りました。これがビンゴ。「あのあたりにありました」と教えられたのが、何のことはない、当方が車を駐めた広い駐車場のあたりでした。たまたまその店内には、浅虫温泉街の古い写真も飾ってあり、許可を得て撮影させていただきました。
こんな風に聞き込みなどをしていると、何だか、内田康夫氏原作のシリーズに登場する探偵・浅見光彦になったような気分でした。そういえば、浅見も時折、旅先でレンタカーを使っています。しかし、浅見は行く先々で美人の地元新聞記者や、眉目麗しい地元観光協会の女性職員などと懇意になりますが、当方はそういう機会にめぐまれません(笑)。逆に、浅見と違って事件に遭遇することもないので助かっていますが(笑)。
さて、「東奥館」があったというのはこの辺り。そう思って見ると、やはり感慨深いものがありました。
近くには元の東北本線だった「青い森鉄道」の浅虫温泉駅。足湯もありました。
その後、一路、この日の宿の十和田湖へ。この日は東北北部はまだ梅雨明けが宣言されておらず、雨中の運転でした。宿は3度目の宿泊となる十和田湖山荘さん。
1泊2食付きで7,660円。それでいて十和田湖名物のヒメマスや、B-1グランプリ獲得の「十和田バラ焼き」も出て、かなりお得です。
温泉にゆっくり浸かり、旅先ではいつもそうですが、さっさと床につきました。
続きは明日。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月30日
大正2年(1913)の今日、光雲と共に東京美術学校に奉職し、同時に帝室技芸員を拝命した彫刻家、石川光明が歿しました。
石川は象牙彫刻で名を成しましたが、元々は神社仏閣の外装を手がける宮彫師の家系。のちに木彫に転じています。昨年から全国を巡回中の「超絶技巧! 明治工芸の粋」展でも、光雲作品と共に石川の作品も展示されています。
当方の住む千葉県香取市佐原地区の大祭は夏と秋、年に2回行われていますが、引き回される山車の彫刻の中に、石川の家系が関わったものが複数あります。