今日から1泊2日で、青森は十和田湖に行って参ります。
光太郎が昭和20年(1945)から7年間を過ごした、岩手県稗貫郡太田村(現・花巻市)の太田地区振興会の皆さん、約40名が、明日、研修旅行的に十和田湖を訪れ、光太郎最後の大作彫刻である「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を見、十和田湖国立公園協会さんや、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんなど地元関係者との交流を図るそうで、それに便乗します。
乙女の像観覧の他、遊覧船でのクルーズ、昨秋開館した「十和田湖観光交流センターぷらっと」の見学などを行うそうで、「ぷらっと」で地元の方々との交流会が行われ、その席上、当方の講演もプログラムに組み込まています。
まぁ、どうしても当方が参加しなければならないというわけでもないのですが、当方、片雲の風に誘われて漂白の思いやまぬ百代の過客を自認しておりまして、自宅兼事務所にくすぶっていると、そぞろ神が心を狂わせ、道祖神の招きにあって取るものも手につかない状態になることがしばしばあり、表八句は残しませんが、行って参ります。
冗談はさておき、こういうご縁は大切にせねば、という思いがありますので。
ついでに青森市民図書館さんで調べ物、さらに現地ではレンタカーを借りますので、浅虫温泉やら十和田湖畔の宇樽部やら、光太郎の足跡の残る場所をたどろうと考えています(奥入瀬渓流や蔦温泉、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉などには昨年、足を運びました)。
ところで、十和田といえば、先頃、十和田湖・奥入瀬観光ボランティアの会さんの方から、地方紙『デーリー東北』さんのコピーを戴きました。先月の記事ですが、ご紹介します。
高村光太郎の図書貸し出し 蝦名さん、十和田湖畔の喫茶店に
十和田市のNPO法人十和田奥入瀬郷づくり大学でガイドを務める蝦名隆さん(60)=三沢市=が、十和田湖を訪れる観光客に乙女の像の作者高村光太郎に親しんでもらおうと、関連図書約80冊を湖畔休屋の喫茶店「茶房憩」に貸し出した。年末まで同店に置く予定。
蝦名さんが本を収集するきっかけは6年前、同法人のガイド養成研修を受講し、光太郎の像がなぜここにあるか説明できなければと思ったことから。
最初は県内の古本屋を回って購入。最近はネット上での収集にも力を入れている。気軽に本を手に取ってもらえるようにと、喫茶店に設置を依頼。和紙が使われた1941年製本の「智恵子抄」の初版本をはじめ、全集や画集も含まれている。
蝦名さんは「自分の本棚に飾っておくのももったいない。高村光太郎像が近くにあるので、寄ったついでに書に触れてほしい。光太郎のことを知って、好きになってくれればいいな」と十和田湖の活性化に期待を寄せた。
蝦名氏とは、一昨年の智恵子の命日の集い・「レモン忌」でご一緒させていただきましたが、こういうことをなさったとは存じませんでした。素晴らしいと思います。また、こういう記事を載せて下さる『デーリー東北』さんも素晴らしいと思います。
ちなみに茶房憩さんは「ぷらっと」の向かい、遊覧船の桟橋広場の一角にある喫茶店で、当方も一度、花巻高村記念会の事務局の方とお邪魔したことがあります。今日か明日、余裕があればまた寄ってみたいと思っています。
というわけで、行って参ります!
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月28日
昭和23年(1948)の今日、茨城県取手町(現・取手市)の長禅寺に、光太郎が題字を揮毫した「開闡」(かいせん)郷土」碑が除幕されました。
取手には、戦前から光太郎と交流のあった詩人の宮崎稔が住んでおり、その父親で、地元の有力者にして文化人であった仁十郎も光太郎に親炙しました。その関係で、取手随一の古刹である長禅寺に建てられた碑に、光太郎の筆跡が使われました。
他にも長禅寺には、やはり光太郎が題字を揮毫した「小川芋銭先生景慕之碑」(建立・昭和14年=1939)も現存します。
当方が訪れた際、どちらも光太郎筆跡が使われていることが大々的に説明されておらず、ひっそりと建っていました。現在はどうなのでしょうか。