光太郎と縁の深かった彫刻家2人を中心とした企画展をご紹介します。

まずは舟越保武。戦後には岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)で教鞭を執り、たびたび同校に招かれた光太郎と交流を持ちました。それ以前の、戦前には長女(このブログでたびたびご紹介している末盛千枝子さん)の名付け親になってもらったり、光太郎歿後の昭和37年(1962)には「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞を受賞されたりしています。 

開館30周年記念 舟越保武彫刻展 まなざしの向こうに

期 日 : 2015/07/12(日)~2015/9/6(日)  (すでに始まっています)
場 所 : 練馬区立美術館 練馬区貫井1丁目36番16号
休館日 : 月曜日(ただし、7月20日(月曜・祝日)は開館、翌21日(火曜)休館)
時 間 : 午前10時~午後6時 ※入館は午後5時30分まで
観覧料 : 一般800円、高校・大学生および65~74歳600円、
      中学生以下および75歳以上無料、


舟越保武は1912年(大正元)に岩手県に生まれ、盛岡中学時代にロダンに憧れて彫刻家を志しました。大理石や砂岩などの石による清楚な女性像で知られる舟越がはじめて石彫に取り組んだのは練馬に在住していた1940年(昭和15)のことであり、舟越は練馬ゆかりの作家でもあります。
1950年(昭和25)以降は自らのカトリック信仰に裏付けられた宗教的主題の作品で独自のスタイルを確立しました。それらは崇高な美しさをたたえており、他の具象彫刻作品とは一線を画するものです。とりわけ、長崎市に設置された《長崎26殉教者記念像》や《原の城》、《ダミアン神父》は、彼の代表作というだけでなく、戦後日本の彫刻を代表する重要な作品の一つといえるでしょう。 1987年(昭和62)に病気のために右半身不随となりましたが、その後10余年にわたり左手で制作を続け、それまでとは異なる迫力を持つ作品を生み出しました。
本展では、代表的な彫刻作品約60点に加え、初公開を含む多数のドローイングを展示し、舟越保武の生涯にわたる彫刻の仕事を回顧いたします。


関連行事 ※要事前申込 いずれも往復ハガキまたはEメールでお申し込み。

 記念講演会「舟越保武の彫刻:造形性をめぐって」 
   日時 7月25日(土曜) 午後3時~
   講師 髙橋幸次(日本大学芸術学部教授)
  
 記念講演会「手で見るという事―私の舟越保武体験―」   
   日時 8月8日(土曜) 午後3時~
   講師 萩原朔美(多摩美術大学造形表現学部教授)
  
 声優、銀河万丈による読み語り  【貫井図書館共同主催】
   日時 8月29日(土曜) 午後3時~
  
 <美術講座>石彫「身体の一部を彫ってみよう」
   日時 8月8日(土曜)、9日(日曜)【2日制】
      両日とも、午前10時30分~午後5時
   講師 石井琢郎(彫刻家)

 映画上映会「日本二十六聖人 われ世に勝てり」
  (1931年、90分、製作:平山政十、弁士:小崎登明修道士)
   日時 8月30日(日曜) 午後3時~


申し込み不要の関連行事

学芸員によるギャラリートーク
   日時 8月1日(土曜)、15日(土曜) 両日とも、午後3時~
 記念コンサート
   日時 8月22日(土曜) 午後3時~
   演者 小池ちとせ(ピアノ・武蔵野音楽大学准教授)
      河野めぐみ(メゾソプラノ・藤原歌劇団団員/武蔵野音楽大学講師)

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続いて、光太郎の盟友だった碌山荻原守衛。 

夏季・秋季特別企画展 制作の背景-文覚・デスペア・女- Love is Art Struggle is Beauty007 (2)

期 日 : 2015/08/1(土)~2015/11/8(日)  
場 所 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
休館日 : 会期中無休
時 間 : AM9:00~PM4:10(入館は30分前まで)
観覧料 : 大人 700円 高校生 300円 小中学生 150円

荻原守衛(号:碌山 1879-1910年)の残した傑作《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが《文覚》(1908年) 《デスペア》(1909年)の二つの作品です。鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚上人の苦悩を見て取り制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。最後の作品 《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にも
つながるものなのです。
個人的な思いを元にして作られた作品が普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。


「文覚」、「デスペア」、「女」。それぞれ、光太郎が激賞した守衛の作品の題名です。

以下、光太郎の詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)です。

  荻原守衛

単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあつた、007
坑夫、文覚、トルソ、胸像。
人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、
新宿中村屋の店の奥に。

巌本善治の鞭と五一会の飴とロダンの息吹とで荻原守衛は出来た。
彫刻家はかなしく日本で不用とされた。
荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。

単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。

――原始、008
――還元、
――岩石への郷愁、
――燃える火の素朴性。

角筈の原つぱのまんなかの寒いバラツク。
ひとりぼつちの彫刻家は或る三月の夜明に見た、
六人の侏儒が枕もとに輪をかいて踊つてゐるのを。
荻原守衛はうとうとしながら汗をかいた。
004
粘土の「絶望」はいつまでも出来ない。
「頭がわるいので碌なものは出来んよ。」
荻原守衛はもう一度いふ、
「寸分も身動き出来んよ、追いつめられたよ。」

四月の夜ふけに肺がやぶけた。
新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして
荻原守衛は血の塊りを一升はいた。
彫刻家はさうして死んだ――日本の底で。


この詩を刻んだ詩碑が同館の庭に建っています。ここ最近、毎年4月22日の碌山忌の集いで朗読されてもいます。「絶望」が「デスペア」。上記のチラシに印刷されている彫刻です。


それぞれぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月23日009

昭和56年(1981)の今日、集英社から円地文子監修『近代日本の女性史 第十巻 名作を彩るモデルたち』が刊行されました。


この中で作家の金井美恵子さんが智恵子の章を約40ページ担当されています。

函に描かれているのは、日本画家、故・大山忠作氏の「智恵子に扮する有馬稲子像」です。

他の「モデル」は、有島武郎『或る女』の佐々城信子、徳富蘆花『不如帰』の大山信子、永井荷風「風ごこち」「矢はずぐさ」の藤蔭静枝、谷崎潤一郎『痴人の愛』の小林せい子、そして竹久夢二の絵のモデルとなった山田順子です。