雑誌としては当方が唯一定期購読しているものに、月刊の『日本古書通信』があります。

今年の5月号から、廣畑研二氏による連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が始まりました。そして昨日、連載の3回目が載った7月号が手元に届きました。

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『南方詩人』は昭和2年(1927)、鹿児島で創刊された雑誌で、同5年(1930)9月まで、全10輯が発行されていますが、今までその全貌が不明でした。国立国会図書館さんには収蔵されておらず、日本近代文学館さんでは昭和5年(1930)1月号のみ所蔵しています(それも欠ページがあるそうです)。この手の地方誌はおおむねそういうものです。

また、時折こういう例もあるのですが、地方誌でありながら、全国区のメジャーどころに寄稿を仰いでいます。廣畑氏の稿によれば、佐藤惣之助、萩原恭次郎、尾形亀之助、草野心平、尾崎喜八、竹内てるよ、木山捷平、黄瀛、小野十三郎、赤松月船、白鳥省吾らの名が執筆者として連なっています。その中に光太郎も。

以前から『南方詩人』に光太郎が寄稿していたことは判明していました。『高村光太郎全集』には、以下の作品が同誌を初出として掲載されています。

昭和4年10月1日号 散文「てるよさんの詩を読んで-詩集『叛く』について-」
昭和5年1月1日号 詩「孤独で何が珍しい」 散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」  散文「平正夫詩集『白壁』に就いて」  書簡二〇三
昭和5年9月10日号 散文「黃秀才の首」

ところが、いかんせん全貌が不明だった地方誌のため、他にも掲載されていたものが漏れていました。

廣畑氏は、沖縄県立図書館さん、いわき市立草野心平記念文学館さん、吉備路文学館さんの3ヶ所に『南方詩人』が収蔵されていることをつきとめ、それぞれの欠損を補って、全10輯の全貌を明らかにされたそうです。

昨日届いた『日本古書通信』7月号掲載の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」第3回に記述がありますが、昭和4年(1929)3月10日発行の第6輯に、ロマン・ロランの戯曲「モンテスパン夫人」の序文が、光太郎の訳で掲載されています。この光太郎訳は今までに全く知られていなかったものでした。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。

廣畑氏から当会顧問の北川太一先生に、この件についてご連絡があり、さらに当方にもそれが廻ってきたのが4月。ただ、添えられていたコピーが不鮮明で読めない、何とかならないか、とのことでした。そこで、連翹忌でお世話になっているいわき市立草野心平記念文学館さんにお願いし、当該箇所のデータを画像ファイルで送っていただきました。北川先生は、翻訳原典である米国版を神保町の田村書店さんを通じて入手なさいました。

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比較的長文の翻訳で、こうしたものが今まで埋もれていたというのが、ある意味、意外でした。全文は来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介します。

他にも廣畑氏の稿によって、『南方詩人』に光太郎作品の掲載状況がいろいろと明らかになっています。例えば大正11年(1922)の第二期『明星』に掲載されたヴェルハーレンの詩「未来」が転載されていたり、生前に活字になった記録が無かった木山捷平あての書簡2487が「詩集「野」読後感」として掲載されていたり、といったところです。

さらに草野心平の作品でも、心平の全集に未掲載のものが大量に含まれているとのこと。地方誌恐るべし、です。

廣畑氏の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」。『日本古書通信』での連載はまだ続きます。もしかしたら書簡、雑纂等で『高村光太郎全集』未掲載のものがまだあるかも知れません。

光太郎の書き残したものの全貌を明らかにする道のりは、まだまだその途上です。ライフワークとして取り組み続けていきたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月15日

昭和31年(1956)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』が刊行されました。

光太郎が亡くなる直前に、草野心平に000編集を託したものです。今日、『智恵子抄』というと、この新潮文庫版を思い浮かべる方がほとんどでしょう。現在も版を重ねています。

オリジナルの龍星閣版『智恵子抄』は昭和16年(1941)の刊行で、時間の流れとしては智恵子の死後間もない頃の作品「梅酒」あたりまでが掲載されています。戦後の昭和25年(1950)には同じ龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行され、新潮文庫版にはそのあたりの作品も収められました。

昭和42年(1967)に改訂版が出るまでの新潮文庫版には、オリジナルに収録されていた詩「或る日の記」が心平の意図で省かれていました。心平曰く、

従来の『智恵子抄』に載っていた「或る日の記」はそれは智恵子さんとの関連が詩の中心をなしていないので故意にはぶいた。

とのことでした。

この点は原著者の意向の無視ということで、のちにかなり批判されています。しかし、こういういわば「力業」が、ある意味「規格外」の詩人だった心平の本領であるとも言えます。他にも光太郎生前から、くり返しその作品集の編集に携わっていた心平ですが、誤植等をあまり気にしていません。光太郎はそういう心平を苦笑しながら見守っていた節があります。