今日、7月9日は、光太郎と縁の深かった森鷗外の忌日、「鷗外忌」です。昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】にてご紹介させていただきました。

その鷗外を顕彰する文京区立森鷗外記念館さんでの展示情報です。 
 期 : 2015年7月17日(金)~9月27日(日)
休館日
 : 7月28日(火)、8月25日(火)
 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
 ※7月~9月の毎週金曜日は20時まで開館(最終入館は19時30分)
観覧料 : 一般300円 中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

公式サイトより

木下杢太郎(1885~1945、本名 太田正雄)は、医学博士として大学で教鞭をとるかたわら、文学、評論、美術など幅広い分野で活躍した文京区ゆかりの文化人です。加えて本年は、生誕130 年・没後70年という記念の年にもあたります。

杢太郎は、明治18年に現・静岡県伊東市に生まれ、13歳で上京、明治39年東京帝国大学医科大学に入学しました。在学中に与謝野寛の新詩社に入社し、詩や小説を次々に発表します。鷗外との最初の出会いは明治40年、英文学者・上田敏の留学壮行会の時でした。鷗外はその後、当時自宅で開催していた観潮楼歌会に杢太郎を招き、二人の交流がはじまりました。文学の道に進みたいと思いながら、家族のすすめにより医学を修めた杢太郎は、大学卒業にあたって、進路に悩みます。その時、助言を求めたのが鷗外でした。杢太郎はその後、満州赴任と、医学研究のための欧州留学で日本を離れ、フランス・リヨンで鷗外の訃報に触れることになりました。

二人が活動の場を同じくした機会は、多いとはいえません。しかし、鷗外をmaȋtre(巨匠)と呼んで慕っていた杢太郎は、没後の鴎外研究の中で、「鴎外は過去でなくて未来への出発点である」という結論にいたります。パート1では、二人の出会いや交流の他、杢太郎が鷗外について記した文章を通して、杢太郎がたどりついた鷗外像に迫ります。パート2では、杢太郎が創作を発表した明治40年代から、晩年までの多彩な活躍をご紹介します。

◆展示関連事業◆
○ギャラリートーク
展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月29日、8月12日、26日、9月9日(いずれも水曜日)14時~
申込不要(展示観覧券が必要です)
所要時間は30分程度を予定しています。

講演会「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎のパリ」
日 時 8月22日(土)14時~15時半
講 師 今橋映子(東京大学大学院教授)
料 金 無料
申込締切 2015年8月7日(金)必着

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杢太郎は、芸術運動「パンの会」、雑誌「スバル」などを通し、光太郎とも縁の深かった詩人です。「パンの会」の関連で、先頃、奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメメイゾン鴻乃巣』を読みましたが、杢太郎が頻出し、最近また気になっています。

「最近また」、というのは、以前にも杢太郎がらみの調査をしたことがあったためです。

神奈川近代文学館さんには、特別資料として、光太郎の自筆書簡も30通あまり所蔵されていますが、そのうち6通は杢太郎宛。さらに4通は『高村光太郎全集』未収録のものでしたので、雑誌『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介させていただきました。また、同館には智恵子と田村俊子による「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」(明治45年=1912)の案内状も所蔵されていますが、こちらも杢太郎あてのものです。これを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。

杢太郎の故郷・静岡県伊東市には伊東市立杢太郎記念館さんがあり、一度足を運ぼうと思いながらなかなかはたせずにいます。暇を見つけて行ってみようと思っています。

関連行事としての講演会、講師の今橋映子氏は、昨秋開催された明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。当方、同日に第59回高村光太郎研究会があったため、参加できませんでしたが、今度はお話を伺ってこようと思っています。

皆様もぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月9日

明治39年(1906)の今日、留学先のニューヨークから、転居の通知を送りました。

この年10月の雑誌『日本美術』第91号に掲載されました。おそらく宛先は版元・日本美術社の川崎安。

小生移転致し候。番地は
150 West 65th Street New York City

さらに、

小生唯今は下宿の最上級、すなはち四面壁にして天井に引き窓のある部屋に籠城

の記述もあります。

光太郎がニューヨークの土を踏んだのは、この年2月27日。はじめは素人下宿c/o Miss Casty,2008 5th Av.に入りましたが、彫刻家、ガットソン・ボーグラムの助手の職を得、週給6ドルを手に出来るようになって、引っ越しました。

晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の記述があります。

西六十五丁目の家の屋根裏の窓の無い安い部屋に移転して自炊しながら毎日ボーグラム氏のスチユヂオに通ひ、猛烈に勉強した。

朝はトーストに紅茶、昼は十仙(テンセンツ)食堂で何か一皿、夜は近所のデリカテツセン店で豆やハムを少し買つて食べ、たまには近くの支那飯屋で安いチヤプスイやフーヨンタンを食べた。

また、やはり晩年に高見順と行った対談「わが生涯」(昭和30年=1950)では、このような発言もありました。

高村 それからこんどは屋根裏の窓のない部屋を借りてね。とても安いんですよ。その代りに、まわりに窓がないから、牢屋と同じなんだ。天井に穴があいてて、綱をひつぱると開くんですよ。
高見 天窓ですね。
高村 そこからあかりが来る。それでも水道とガスが附いてて、そこにいてボーグラム先生の所へかよつて、夜は学校へ行つたんです。一日一ドルで、どうやらこうやら、やつていられたですね。
高見 それがおいくつくらいの時でしたか。
高村 二十四か五ですね。
高見 偉いもんですね。