地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。
大瀬川歴史探訪講座 高橋愛子さん、光太郎を語る(6/24)
「気さくなおじいさん」
花巻市石鳥谷町の大瀬川活性化会議が主催する第35回大瀬川歴史探訪講座は23日、「高村光太郎と大瀬川の芸術」をテーマに大瀬川振興センターで開かれた。花巻で疎開生活を送った詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と交流した高橋愛子さん(83)=同市太田出身、同市石鳥谷町大瀬川在住=から思い出話を聴き、地区住民ら約30人が偉人の暮らしぶりや人柄に思いをはせた。
高橋さんの実家は、東京から疎開してきた光太郎が同市太田山口(旧太田村山口)を訪れた最初の晩に泊まった場所。当時16歳だったという高橋さんは「背が高く、ひげもじゃで、よれよれのリュックサックを背負って、この人は本当に偉い人なのかなと思うような格好をして来た。脱いだ靴を見たら34センチぐらいあって、びっくりした」と驚きの連続だった光太郎との出会いを振り返った。
村人の建てた簡素な山荘で7年間暮らした光太郎は、何でも知っている先生として慕われ、講話や学校への寄付を行い、運動会やクリスマスといった行事に参加するなど、地域にすっかり溶け込んでいたと回顧。「光太郎が学校に来ると、生徒たちはみんな駆け寄って手をつないだ。子供にとっては先生でなく、ただのそこらへんのおじいさんという感じ。本当に気さくだった」と偲んだ。
参加者は興味深げに聴き入り、「妻の智恵子について話を聞いたことはなかったか」「美食家だったといわれているが」「何で7年も山口にいたのか」などと質問。高橋さんは「夏に光太郎が風邪を引いて山荘で休んでいた時に『寂しくないですか』などと聴いたら『ちっとも寂しくない。智恵さんがいる』と言っていた。亡くなっていた智恵子さんをすごく愛していたんだと思う」「外国でおいしい物を食べていた人だった。畑ではオクラやセロリなど山口では珍しかった西洋野菜を植えていた」「母は、光太郎は戦争に賛成した詩を書いた責任を感じて山口に来たんだべ、と言っていた」などと答えた。
リニューアルした高村光太郎記念館に行って感動し、当時について聞いてみたいと思って参加した菅原房子さん(61)=大瀬川=は「記念館の内容と愛子さんの話が結び付き、なるほどと思った」と目を輝かせていた。
高橋愛子さん。花巻郊外太田村に住んでいた頃の光太郎をよくご存じの方です。今年2月にオンエアされたNHKさんの「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」にもご出演なさっていました。
お父さんの雅郎さんは、光太郎がいた頃の太田村村長さん。ただし、戦時に外地に行っていて、帰国した時にはすでに光太郎が太田村に住んでいました。その後、村長に就任したというわけです。
お母さんのアサヨさんも、何くれとなく光太郎の世話をやいてくれました。そして愛子さんご自身も、光太郎の元にいろいろと届け物をしたりで、光太郎の日記にお名前が頻出しますし、詩「山の少女」(昭和24年=1949)のモデルとも言われています。そしてお二人とも、昭和41年(1966)、かつての太田村に建った高村記念館の受付を永らくなさっていました。
今年4月にリニューアルオープンとなった花巻高村光太郎記念館の受付で、下記のリーフレットを無料配布しています。題して「おもいで 愛子おばあちゃんの玉手箱」。
A3判の用紙両面印刷で、4つ折りになっています。地元スタッフの方々が愛子さんへの聞き書きをまとめたもの。「サンタの衣装づくり」「西洋野菜」「日時計」などなど、中にはこれまで活字になったことがなかったのではないかと思われる、実に貴重な証言が満載です。
花巻高村光太郎記念会の事務局長氏と電話でお話をした際、愛子さんのお話にもなりました。記事にある地域の講座も、このリーフレットができたことで、これを見ながらお話をすれば楽だ、ということで、実現したとのことでした。
他にも、今秋をめどに、旧太田村の皆さんによる光太郎証言をまとめる計画が進んでいます。またお手伝いさせていただくことになりまして、いいものができるよう、頑張りたいと思っております。
来月には、旧太田村の皆さんで作る「太田地区振興会」の方々約40名が、十和田湖にいらっしゃるそうで、当方も現地で合流することにいたしました。やはり生前の光太郎をご存じの振興会の佐藤会長は、二本松で開催されている智恵子命日の集い「レモン忌」にもいらしています。逆に今年は「レモン忌」主催の「智恵子の里レモン会」の皆さんが、5月の「高村祭」に大挙していらして下さいました。
今度は十和田の観光ボランティアの会の皆さんとの交流ということです。こうした地域同市の草の根の交流、ネットワーク作りというのも、非常に重要なことだと思います。さらにいろいろな分野で輪を広げ、強固なものにし、光太郎智恵子の業績を後世に伝えていきたいものです。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月27日
昭和19年(1944)の今日、『朝日新聞』に詩「婦女子凜烈たり」が掲載されました。
戦略軍機は揣摩を絶し、
統帥の府厳として大局を握る。
サイパン島一円の戦、
敵これに万の犠牲を傾け来たる。
上陸の敵を邀(むか)へて婦女少年も力を協(あは)せ、
海陸未曾有の真相を呈するに至る。
しかもアメリカ海軍の運命がいま
大挙してここに集る。
連合艦隊の一部百錬の力を出動し、
撃滅の気すでに海に溢(あふ)る。
国民の胸黙すれどもをどり、
国民の血平かなれども白熱し、
補給はひきうけたと
二十四時間が唸りを立てる。
いまつくる此の部品があすは戦ふ。
あそこで撃つ。
いま、いま、いま、
いまを措いて行動の実質はない。
あの要衝で婦女子もまた決然たる
その凜烈の様相が眼に見える。
昭和19年(1944)、勤労動員などで、婦女子までもが駆り出された戦時の世相がよく表されています。近くて遠いどこかの独裁国家では、今も同じようにミサイルの製造などを行っているのでしょうか。我が国がもう一度、いや、永遠に、こういう状況に戻らないことを祈ります。
「あそこで撃つ。/いま、いま、いま、」は、現代の婦女子代表・なでしこジャパンのシュートだけにしてほしいものです。
余談になりますが、なでしこジャパン主将の宮間あや選手は、昭和9年(1934)に智恵子が療養していた豊海村(現・九十九里町)に隣接する大網白里町(現・大網白里市)の出身です。
明日は女子ワールドカップ準々決勝。「あの要衝(カナダ)で、婦女子もまた決然たる/その凜烈の様相が眼に見える。」という状況になってほしいものです。