今日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。

太平洋戦争末期であった昭和20年(1945)、3月から始まった住民を巻き込んでの沖縄戦で、組織的な戦闘が終結したのが6月23日。それが由来です。

この戦闘による犠牲者は日米英あわせて約20万人。他の局地戦と異なり、戦闘に巻き込まれたり、集団自決をしたりで、多数の民間人が犠牲になっています。

さて、昨日の沖縄の地方紙『沖縄タイムス』に掲載された一面コラムです。

大弦小弦

2015年6月22日

名護市の私設博物館「民俗資料博物館」が1945年の新聞、365日分を展示している。沖縄戦の記録として、館長の眞嘉比朝政さん(78)が8年かけて集めた
▼新聞は全て本土から。壕で発行された沖縄新報は5月25日で途絶え、戦火でほぼ失われたからだ。眞嘉比さんは「沖縄以外の新聞社の記事で沖縄戦が分かるのは皮肉」と言う
▼色あせた新聞を手に取ると、本土の視点が分かる。沖縄本島に米軍が上陸した直後の4月3日。朝日新聞は高村光太郎の詩「琉球決戦」を掲載した。「琉球やまことに日本の頸(けい)動脈」「琉球を守れ、琉球に於(おい)て勝て」と、抗戦を訴える
▼軍部は負け戦を重々承知だった。敗北が迫った6月15日、毎日新聞は鈴木貫太郎首相の会見を報じる。「私は沖縄を天王山としていない」「あまり沖縄のみを強調して国民の意志を弱めることは好まぬ」と手のひらを返した
▼組織的戦闘が終わった26日。北海道新聞の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛態勢を強化せしめ」と、捨て石作戦の性格を露骨に書いた。結局、「本土決戦」はなかった
▼沖縄は昭和天皇の「メッセージ」で米国に差し出され、日本復帰後も基地を背負い続ける。原点である慰霊の日が巡ってくる。70年。かくも長く終わらない不正義を、誰が想像できただろうか。(阿部岳)

016引用されている「琉球決戦」、手許の資料によれば『朝日新聞』への発表は4月2日。『沖縄タイムス』さんでは3日となっていますが、東京版でない版で、1日遅れの掲載という可能性が考えられます。

全文はこうです。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。017
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が神機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。


戦後の今だから言えるのかも知れませんが、何をか言わんや、の感がぬぐえません。「全日本の全日本人よ、琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、起つて琉球に血液を送れ。」。そんな余裕がどこにあったというのでしょうか。

戦艦「大和」による沖縄特攻が行われたのはこの詩が発表された5日後の4月7日。なるほど、「起つて琉球に血液を送れ」の実行かも知れません。しかし、米軍に制空権を奪われ、航空機部隊の援護もない中での鈍重な艦艇の出撃など、失敗に終わるのは目に見えています。それでも実行したのは「玉砕」の二文字の持つ魔力、とでもいいましょうか、「生きて虜囚の辱を受けず」の精神でしょうか。上層部はそれでいいのかも知れませんが、巻き添えにされる下々の兵卒はたまったものではありません。

そして沖縄でも多数の民間人犠牲者。どこが「吾が神機の到来なり」だったのでしょうか。


こうした愚にもつかない空虚な戦争協力詩を乱発し、多くの前途有為な若者に「命を捧げよ」と鼓舞し続けたことを恥じ、かつ反省し、戦後の光太郎は岩手の不自由な山中に「自己流謫(じこるたく)」の毎日を送る決断をしました。「流謫」は「流刑」に同じ。公的に戦犯として処されることのなかった光太郎は、自分で自分を罰することにしたわけです。

しかし、沖縄戦の実態などは、GHQによる報道管制などの影響もあり、戦後になっても一般国民には余り知らされませんでした。昭和25年(1950)には有名な石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』が刊行されましたが、光太郎、これを読んだ形跡がありません。もし読んでいたら、自作の「琉球決戦」と併せ、どのような感想を持ったか、興味深いところです。


ところで、今日行われる沖縄全戦没者追悼式に、集団的自衛権とやらの濫用を目論み、普天間基地移設問題では知事を門前払いにしたあの人も出席するのですね。「弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。」という国にするのが目標としか思えないのですが。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月23日

昭和48年(1973)の今日、岩波書店から三田博雄著 『山の思想史』 が刊行されました。

当方も寄稿させていただいた山岳雑誌『岳人』さんに連載されたものに加筆修正し、「岩波新書」の一冊として刊行。北村透谷、志賀重昂、木暮理太郎ら、山を愛した近代知識人を取り上げています。

光太郎の項では、青年期に訪れた赤城山と上高地、智恵子の故郷・福島の安達太良山、そして戦後の花巻郊外の太田村での山居について紹介しています。