一昨日、東京池袋で「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」、さらにリブロ池袋本店内のぽえむ・ぱろうるに行った後、JRから地下鉄に乗り換える都合もありまして、巣鴨にも立ち寄りました。
上京した際には複数の用件を済ませるのを基本としており、さらにこのブログのためのネタ拾いという意味合いもあります。
こちらがかの有名なとげ抜き地蔵・高岩寺さん。巣鴨といえば、「おばあちゃんの原宿」ですが、目的地はこちらではなく、高岩寺さんを横目に中山道(国道17号)を北上、右手の路地を入っていった西巣鴨4丁目にある妙行寺さんというお寺です。こちらの境内に、光雲作の観音像が露座で鎮座なさっているという事だけは知っておりまして、行ってみようと思った次第です。
めざす妙行寺さんのすぐ近くを、都電荒川線が走っていました。あとで地図を見たところ、巣鴨駅で下りて歩くより、地下鉄三田線の西巣鴨駅、または大塚駅から都電に乗り換え、新庚申塚という駅で下りればすぐでした。巣鴨という地名だけを頼りに、巣鴨駅の近くだろうと、あまり調べもせず行ったので失敗しました。巣鴨駅からはけっこうありました。
さて、妙行寺さん。100㍍ほどのところを国道17号が走っているにもかかわらず、境内は静かな雰囲気でした。本堂やら仏塔やら、いい風情でした。
目的の光雲作の観音像もすぐに見つかりました。
しかし、台座の石柱に「うなぎ供養塔」の文字。「なんじゃ、そりゃ?」です。
観音像を含むこの塔が、東京うなぎ蒲焼商組合などの発願で建立されたものでした。細かな場所もそうでしたが、どういう像があるのかもろくに調べずに行ったので、存じませんでした。
台座の側面には、加盟店の名がずらり。
背面には「原型者 高村光雲先生 鋳造者 渡辺長男先生 昭和三十五年五月二十日建立」の文字。光雲が歿したのは昭和9年(1934)ですから、歿後かなり経ってから鋳造されたものということになります。そういうケースも少なくないので、この点はあまり意外ではありません。
鋳造者は渡辺長男(おさお)となっています。「あれっ」と思いました。渡辺は日本橋の麒麟などの彫刻を造った彫刻家です。彫刻制作だけでなく、鋳造も手がけていたのか、と思いました。
帰ってから調べてみると、渡辺の義父は岡崎雪声。岡崎は鋳金家で、やはり光雲がらみの楠公銅像や、やはり日本橋の麒麟などの鋳造に携わっています。娘婿の渡辺もそうした関係で鋳造の技術を身につけていたのかも知れません。
しかし、渡辺の没年は昭和27年(1952)。妙行寺さんの「うなぎ供養塔」の建立は昭和35年(1960)。像の鋳造だけは先に行われていたということでしょうか。
目指す観音像を拝観し終え、境内をぶらつきました。すると、こんなものが。
「四谷怪談お岩様の寺」という碑です。
これも存じませんでしたが、妙行寺さんにはお岩さんの墓があるとのことで、驚きました。歌舞伎などで「四谷怪談」を上演する際には、関係者が必ずお岩さんの墓参りをするという話は聞いたことがありましたが、それがまさかここだとは……。てっきりお岩さんの墓も四谷近辺にあるとばかり思っていました。
やはり帰ってから調べたところ、妙行寺さん、元は四谷の隣の信濃町にあって、明治になってから巣鴨に移転したとのこと。それなら納得です。
光雲作の観音像、うなぎだけでなく、お岩さんの魂も供養していただきたいものです。
この手の光雲が原型を手がけた仏像のたぐいは、都内のあちこちの寺院で見ることが出来ます。浅草寺の沙竭羅龍王像などもその一つ。また折を見て他の寺院の像を拝観し、レポートしたいと思っております。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月22日
明治43年(1910)の今日、智恵子が旧制米沢中学の生徒・鈴木謙二郎に宛てて葉書を書きました。
実はねからだがあまり思はしくなかつたのであれから今迄房州に行て居りましたのです 昨夕帰て御はがきを拝見しました さうでしたか けふは廿二日 もう退院なすつたかとも存じますが如何です 其後の御経過はお宜しいですか 其中都合して病院ならば御伺したいと思ますが女は不自由で困ります、まァ折角御摂養して御全快の程祈上ます
鈴木は智恵子の七歳年下。明治40年(1907)、智恵子が父と弟と共に、福島県北部の原釜海岸にあった金波館という旅館での潮湯治(海水浴をそう呼んでいました)逗留中に知り合い、以後、姉弟のように文通をするようになりました。この書簡の「実はね」という書き出しも姉のような雰囲気ですね。
智恵子から鈴木宛の書簡は17通確認されています。智恵子の書簡は70通ほどしか見つかっていません(まだまだどこかに眠っていそうですが)ので、そのうちの17通というのは、かなりのパーセントです。
鈴木はこの時、東京帝大病院の耳鼻科病棟に入院していたとのこと。