仙台に本社を置く東北の地方紙、『河北新報』さん。一昨日の一面コラムで光雲を取り上げて下さいました。

河北春秋

 組織「イスラム国」によるイラクやシリアの古代遺跡の破壊が続く。約3千年前のアッシリア帝国のニムルド遺跡、約2千年前に栄えたハトラ遺跡。世界遺産のあるパルミラも制圧したと伝えられる。なんとも残念▼と思ったら、日本でも明治維新のころ、文化遺産が災難に遭っていた。理由の一つは、新政府による「神仏分離令」だ。廃仏毀釈(きしゃく)運動が進み、結果として寺院や仏像、仏具などの売却、廃棄につながった。仏師の高村光雲が焼却寸前の観音像を買い取った、という逸話もある▼そして、明治6(1873)年の「廃城令」。お城は封建時代の遺物と見なされた。多くが破壊され、維持コストがかかると売り払われた。太平洋戦争を経て、天守が創建当時のまま残ったのは、12城だけだ▼その一つ、弘前城のある弘前市が言い出しっぺとなり、「現存十二天守同盟」なるものを結成する。兵庫・姫路や松山など11市と協力し、情報発信や外国人観光客誘致などを進めるそうだ。松江城(松江市)の国宝内定や城巡りブームもあって、大いに盛り上がるだろう▼存続の危機があった事実や背景も、伝えられるといいと思う。先達の価値観は、時の為政者によってすっかりひっくり返されることもある。いまだからこそ、考えてみては。(2015.6.12)

イスラミック・ステートによる文化財破壊のニュースから、明治初頭の廃仏毀釈へと話が進み、光雲のエピソードが紹介されています。先日放映されたNHKEテレさんの「日曜美術館 命を込める 彫刻家・高村光雲」の中でも少し扱われていたエピソードで、元ネタは昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』です。

神仏分離の政策は、王政復古となった慶応年間からすでに太政官布告の形で進められました。仏教の排斥を企図したものではなかったにも関わらず、各地で拡大解釈がなされ、エスカレート。廃藩置県前、中部地方のある藩では、藩主の菩提寺を含め、領内全ての寺院が破壊され、何と現在でも仏式の葬儀を行う家庭がほとんど無いということです。

『光雲懐古談』に記されたエピソードは、光雲がまだ徒弟修行中の明治9年(1876)頃のこと。本所にあった(現在は目黒に移転)羅漢寺という寺院境内の栄螺堂が取り壊され、堂内に安置されていた観音像百体が焼却されることになりました。請け負ったのは「下金屋」という金属のリサイクル業者。像に施されている箔の金を、焼却した後で取り出すというわけです。

今にも火をかけられる、という話が町の人から師匠・東雲の処にも007 (2)たらされましたが、あいにく師匠は留守。そこで、以前からそれらの観音像を手本とするため足繁く通っていた光雲が、現場に飛びます。業者と交渉の結果、特に出来がいいと目星をつけていた五体、それもすでに解体されていたものの部材を集めて、譲って貰いました。業者は足もとを見てふっかけてきたそうですが、後から駆け付けた師匠が支払いました。

そのうちの一体を、光雲は自分の守り本尊として師匠から買い取り、終生、手元に置いていたとのこと。江戸時代の仏師・松雲元慶の作で、右の画像の観音像です。現在も高村家に遺っているはずです。確かに光雲の作に通じる柔和なお姿ですね。

『光雲懐古談』のこのくだり、「青空文庫」さんで公開中ですので、ご覧下さい。四つの章に分かれていますが、ひとつながりです。



たかだか150年ほど前、我が国でもこうした乱暴な文化財破壊が行われていたわけで、イスラミック・ステートの暴挙も笑えません。

もっとも、『河北新報』さんの「河北春秋」(少し前には保守系の泡沫政党の議員が、別の日の「河北春秋」にお門違いの非難を開陳していて、笑えました)の最後に有るとおり、さらに近い過去である70年前の苦い経験も無視し、先人の守ってきた金科玉条を破壊しようとする為政者の支配する国ですから……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月14日

昭和23年(1948)の今日、散文「一刻を争ふ」を書き始めました。

稿了は翌日。翌月の雑誌『婦人之友』に掲載され、のち「季節のきびしさ」と解題の上、詩文集『智恵子抄その後』に収められました。

すでに2年余りを過ごした花巻郊外太田村の山小屋で、自然の営みの力に驚嘆させられることを綴っています。