昨日のこのブログで、岡山の地方紙『山陽新聞』さんの一面コラムをご紹介しましたが、同じ『山陽新聞』さんの一昨日の紙面には、こんな記事が載りました。岡山出身の日本画家・小野竹喬(ちっきょう)の子息に関してです。
小野竹喬長男の戦時中日記を発見
笠岡市出身の日本画家小野竹喬(1889~1979年)が後継者として期待した長男・春男は43年、太平洋戦争で戦死した。26歳だった。この春男が召集までの1年半、つづった日記が、9日までに京都市の実家で見つかり研究者らを驚かせている。芸術論から婚約者への恋心まで記され、これまで知られていなかった青年画家の実像が読み取れるからだ。
調査した笠岡市立竹喬美術館(同市六番町)によると、春男直筆の文字資料が確認されるのは初めてという。
戦後70年を機に春男作品の展示準備を進める同美術館に、遺族から日記発見の一報が入ったのは今年5月のこと。
日記からは芸術論について、特に強い思いがあったことが分かる。
「セザンヌをおし進めるとしても、そこに融合せしめなければならぬものがある。それは我々が東洋画に…鉄斎、大雅、法隆寺に感得するものを」。42年5月28日付には、フランスの画家セザンヌや文人画家富岡鉄斎らの名を挙げ、東西芸術の融合に並々ならぬ意欲を示した。
春男は京都市出身。40年に同市立絵画専門学校(現同市立芸術大)を卒業後、41年5月の第6回京都市美術展で入選。美術雑誌にも名前が挙がる新鋭日本画家だったが、43年12月に戦死する。人物像はこれまで、わずかな作品のほか、近くに住んでいた作家水上勉や絵専の同級生の思い出などから想像するほかなかった。
日記は1冊で、41年1月から42年7月の陸軍入隊直前まで約120ページ。41年1月3日に「我が形式を見出さねばならない」と、偉大な父を超えようと独自の芸術を目指す決意を記す一方、「今日で三日目。描かれた葉一枚がまだ満足なものではないのだ」(41年9月13日)、「この絵にかゝってから三ケ月目。再び自然を見た時。何んと俺の絵は概念的なのだらう。自然はもっともっと微妙に美くしい」(同年11月16日)など、日々の制作の苦悩を書き残している。
最後の日付は42年7月3日。婚約者の名を記し「お前との交渉の半年が、君に対する俺の恋情を確固たるものにした。…たしかに愛するといふことは豊かにしてくれる」。まるで予感していたかのように、わずか6日後、召集令状が届き、帰らぬ人となった。
同時に見つかった「書技帳 昭和十四年」と書かれたノートには、ニーチェ、ルソーら思想家やルノワール、セザンヌ、高村光太郎ら芸術家の言葉、またベートーベン、ワーグナーらの曲名も挙げられ、読書や音楽鑑賞など教養の広さもうかがえる。
調査にあたった徳山亜希子学芸員は「理想と現実のギャップに悩みながら新しい日本画を求めて模索する青年の素顔が浮かび上がってきた。令状1枚で本人はもちろん家族の希望も断ち切る戦争のむごさも伝わる」と話している。
■春男の死、竹喬芸術にも影響 笠岡市立竹喬美術館の上薗四郎館長の話
春男の死は父である竹喬にも大きな影響を与えた。戦死の報を受けた竹喬は、『これから二人分の仕事をする』と誓っている。戦後、よく描いた夕焼けや空に春男の魂を感じているような文章があり、息子の死が竹喬芸術をより深めたともいえる。
調査した笠岡市立竹喬美術館(同市六番町)によると、春男直筆の文字資料が確認されるのは初めてという。
戦後70年を機に春男作品の展示準備を進める同美術館に、遺族から日記発見の一報が入ったのは今年5月のこと。
日記からは芸術論について、特に強い思いがあったことが分かる。
「セザンヌをおし進めるとしても、そこに融合せしめなければならぬものがある。それは我々が東洋画に…鉄斎、大雅、法隆寺に感得するものを」。42年5月28日付には、フランスの画家セザンヌや文人画家富岡鉄斎らの名を挙げ、東西芸術の融合に並々ならぬ意欲を示した。
春男は京都市出身。40年に同市立絵画専門学校(現同市立芸術大)を卒業後、41年5月の第6回京都市美術展で入選。美術雑誌にも名前が挙がる新鋭日本画家だったが、43年12月に戦死する。人物像はこれまで、わずかな作品のほか、近くに住んでいた作家水上勉や絵専の同級生の思い出などから想像するほかなかった。
日記は1冊で、41年1月から42年7月の陸軍入隊直前まで約120ページ。41年1月3日に「我が形式を見出さねばならない」と、偉大な父を超えようと独自の芸術を目指す決意を記す一方、「今日で三日目。描かれた葉一枚がまだ満足なものではないのだ」(41年9月13日)、「この絵にかゝってから三ケ月目。再び自然を見た時。何んと俺の絵は概念的なのだらう。自然はもっともっと微妙に美くしい」(同年11月16日)など、日々の制作の苦悩を書き残している。
最後の日付は42年7月3日。婚約者の名を記し「お前との交渉の半年が、君に対する俺の恋情を確固たるものにした。…たしかに愛するといふことは豊かにしてくれる」。まるで予感していたかのように、わずか6日後、召集令状が届き、帰らぬ人となった。
同時に見つかった「書技帳 昭和十四年」と書かれたノートには、ニーチェ、ルソーら思想家やルノワール、セザンヌ、高村光太郎ら芸術家の言葉、またベートーベン、ワーグナーらの曲名も挙げられ、読書や音楽鑑賞など教養の広さもうかがえる。
調査にあたった徳山亜希子学芸員は「理想と現実のギャップに悩みながら新しい日本画を求めて模索する青年の素顔が浮かび上がってきた。令状1枚で本人はもちろん家族の希望も断ち切る戦争のむごさも伝わる」と話している。
■春男の死、竹喬芸術にも影響 笠岡市立竹喬美術館の上薗四郎館長の話
春男の死は父である竹喬にも大きな影響を与えた。戦死の報を受けた竹喬は、『これから二人分の仕事をする』と誓っている。戦後、よく描いた夕焼けや空に春男の魂を感じているような文章があり、息子の死が竹喬芸術をより深めたともいえる。
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日記、ノートは作品とともに7月18日から9月6日まで、竹喬美術館の特別陳列「画学生小野春男と父竹喬」で公開される。初日と8月8日はギャラリーコンサートもある。問い合わせは同美術館(0865-63-3967)。
日記、ノートは作品とともに7月18日から9月6日まで、竹喬美術館の特別陳列「画学生小野春男と父竹喬」で公開される。初日と8月8日はギャラリーコンサートもある。問い合わせは同美術館(0865-63-3967)。
心いたむ記事です。当方の父親の実家近くに、戦没画学生の作品を集めた「無言館」さんという美術館があります。そちらを想起しました。小野春男はもはや学生ではなかったようですが、前途有為な若者であったという点では同じですね。
今年は戦後70年にあたります。『毎日新聞』さんの連載「数字は証言する データで見る太平洋戦争」によれば、あの戦争での日本人戦死者は約230万人(異論もあり)とのこと。
一人一人の死の裏側に、こうしたドラマがあったわけですが、「永遠のナントカ」などと、それを美談に仕立て、何らの反省も行わないようでは、亡くなっていった人々も浮かばれないのでは、と思います。
小野春男がノートに書き記していた光太郎の言葉というのがどんなものなのか、記事では不明です。芸術論的なものからの抜粋で、小野が画家としてそれを心の支えにしていたというのなら、まだ救われますが、戦時中に大量に書き殴った空虚な戦争詩や散文だったとしたら、やりきれません。
昨日のブログで書いた、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態が長く続かなかった、というのは、ここにつながります。昭和16年(1941)に『智恵子抄』を上梓した後、詩の世界で智恵子が謳われることはもはやなくなり(戦後まで)、光太郎は全身全霊を空虚な戦争賛美の作品に傾けていきます。
小野がそれをどんな想いで書き記していたのかにいたっては、もはや確かめるすべはありません。そう考えると、このノート、見てみたいような、見るのが恐ろしいような、そんな気分です。
笠岡市竹喬美術館の企画展は以下の通りです。
平成27年度展覧会 画学生 小野春男と父 竹喬
期 日 : 平成27年7月18日(土曜日)~9月6日(日曜日)
会 場 : 笠岡市竹喬美術館 県笠岡市6番町1-17
時 間 : 9時30分~17時
休館日 : 毎週月曜日(ただし祝日にあたる7月20日は開館し、翌21日は休館します)
入館料 : 一般500円 高校生300円 市外小中学生150円
関連行事:
ギャラリーコンサート
いずれの回も、入場整理券(一般500円、竹喬美術館友の会会員は無料)を竹喬美術館にて6月より配布しますので、事前にお買い求めの上ご来場下さい。入場整理券で当日18時からに限り展覧会もご覧いただけます。
◇ソプラノ村上彩子「平和祈念 父・竹喬 息子・春男の目指した道」 平成27年7月18日(土曜日)18時30分開演
◇ソプラノ村上彩子「小野春男・葛原守 戦没学生蘇る70年の時」 平成27年8月8日(土曜日)18時30分開演
ギャラリートーク
7月25日(土曜日)・8月23日(日曜日) 13時30分~14時30分 聴講無料(入館料が必要)、予約不要
こういう若者がまた現れるであろう方向に、この国は再び向かいつつあります。それでいいのでしょうか?
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月12日
平成23年(2011)の今日、大阪府池田市の逸翁美術館で開催されていた企画展「与謝野晶子と小林一三」が閉幕しました。
小林一三は実業家。阪急電鉄や宝塚劇場などの創業者です。
与謝野鉄幹・晶子夫妻の援助者としても知られ、小林の元には夫妻の書などが大量に遺されました。
その中に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌をしたためた屏風絵が2点あって、この企画展に出品されました。光太郎の絵画としては新発見の物で、非常に驚きました。
晶子の書簡の中に「小林市三氏の画まことによく出来申候(高村氏の筆)」という一節があり、これを指していると考えられます。
ただし、2点とも屏風には仕立てられて居らず、マクリの状態で保存されています。明治44年(1911)の作品です。