当方の住む関東地方も、今週初めに梅雨入りいたしました。当方自宅兼事務所の紫陽花です。
もともと梅の実が熟する頃、というわけで「梅雨」の時が当てられたものです。「梅」といえば「智恵子抄」に収められた「梅酒」。「智恵子抄」の中で、この詩が一番好き、という方も多いようです。
梅酒
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
画像は以前にいただいた、イラストレーター・河合美穂さんの作品です。
「梅酒」を今日の『山陽新聞』さんの一面コラムで取り上げて下さいました。
滴一滴
店頭に青梅が出回っている。梅酒づくりの季節である。梅干しは難しくて…という人でも手軽にできることからファンは多い。工夫次第でわが家だけの味が楽しめるのも魅力だ▼氷砂糖の代わりに蜂蜜や黒糖を使ってもいい。無色透明の焼酎ではなく、香りのいいブランデーやウイスキーを入れるという人もいる。青梅の時季は短いが、黄色く熟した梅を使っても独特の風味に仕上がるという▼高村光太郎の詩「梅酒」を思い出す。<死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は十年の重みにどんより澱(よど)んで光を葆(つつ)み、いま琥(こ)珀(はく)の杯に凝って玉のようだ>(「智恵子抄」から)▼精神を病む前の最愛の妻が、この世に遺(のこ)していった。早春の夜更けの寒い時に召し上がってくださいと。その梅酒を光太郎は台所の片隅に見つけ、ひとり、しずかにしずかに飲む。その味わいは<狂瀾(きょうらん)怒(ど)濤(とう)の世界の叫もこの一瞬を犯しがたい>▼生涯のほぼ半分を結核と闘った俳人・石田波郷には、こんな作品がある。<わが死後へわが飲む梅酒遺したし>。呼吸をするのも苦しかった没年の作という▼きょうは「入梅」。立春から数えて135日目に当たり、青梅の収穫もピークを迎える。梅酒は法律に基づいて自宅でつくり、自ら楽しむことができる身近なお酒だ。甘酸っぱいその味は、時に人生の深い一滴も含んでいる。
「梅酒」が書かれたのは昭和15年(1940)。前年にはドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。日中戦争は既に泥沼化し、日独伊三国同盟が締結され、翌年には太平洋戦争が始まる、そんな時期です。
そういう世相が「狂瀾怒涛の世界の叫」と表されています。しかし、それも智恵子の遺した梅酒を静かに味わう感懐には無縁、と謳っています。
かなり前の作品ですが、昭和7年(1932)の詩「もう一つの自転するもの」でも、同じような内容を謳っています。
春の雨に半分ぬれた朝の新聞が
すこし重たく手にのつて
この世の字劃をずたずたにしてゐる
世界の鉄と火薬とそのうしろの巨大なものとが
もう一度やみ難い方向に向いてゆくのを
すこし油のにじんだ活字が教へる
すこし重たく手にのつて
この世の字劃をずたずたにしてゐる
世界の鉄と火薬とそのうしろの巨大なものとが
もう一度やみ難い方向に向いてゆくのを
すこし油のにじんだ活字が教へる
とどめ得ない大地の運行
べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく
もう一つの大地が私の内側に自転する
べつたり新聞について来た桜の花びらを私ははじく
もう一つの大地が私の内側に自転する
画像は岩手県奥州市の人首文庫さんからいただいた、掲載誌『文学表現』に送られた草稿のコピーです。
しかし、「もう一つの大地が私の内側に自転する 」「狂瀾怒濤の世界の叫も/ この一瞬を犯しがたい。」という状態は長く続きませんでした。
その結果、どうなって行くのか、以下、明日。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月11日
昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で開催されていた「高村光太郎の芸術」展が閉幕しました。
光太郎展としてはかなり早い段階のものです。
光太郎展としてはかなり早い段階のものです。