福島は二本松、智恵子生家・智恵子記念館からの情報です。

まず概略を説明する代わりに地元紙『福島民友』さんの記事を。

「智恵子の生家」限定公開 二本松市合併10周年記念

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子を育んだ二本松市油井の「智恵子の生家」で、智恵子の部屋を含む非公開の2階部分が6月6日から限定公開される。大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン(DC)」や、同市の合併10周年を記念し、公開する。
  智恵子の部屋は収納と一体になった急な階段を上った所にある。大通りに面し、低い天井が当時をしのばせる。また、今回は別の急な階段を上った場所の杜氏(とうじ)などの部屋も新たに公開される。
  限定公開日はDCや夏休み、二本松の菊人形の期間中、冬期間の計47日間。土、日曜日と祝日で、時間は午前11時~午後0時30分、午後1時30分~同3時。入館料は一般410円、高校生以下200円。
  問い合わせは市智恵子記念館(電話0243・22・6151)へ。

  智恵子の生家限定公開日
 【6月】6、7、13、14、20、21、27、28日
 【7月】18、19、20、25、26日
 【8月】1、2、8、9、15、16、22、23日
 【10月】10、11、12、17、18、24、25、31日
 【11月】1、3、7、8、14、15、21、22、23日
 【2月】6、7、11、13、14、20、21、27、28日


通常、立ち入りの出来ない生家二階の智恵子の部屋に入ることができます。また、隣接する智恵子記念館では智恵子紙絵の実物の展示も。

二本松市さんのサイトから。 

「智恵子の生家」二階を期間限定で公開します

明治初期に建てられ、清酒「花霞」を醸造していた旧長沼家。智恵子を育んだ「生家」であり、通常は立ち入りが制限されているこの「生家」二階を期間限定で公開します。
座敷を通り、階段を上がると、智恵子が過ごした部屋が当時のまま保存されています。
また、奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物も期間限定で展示します。この機会に是非ご覧ください。

ふくしまデスティネーションキャンペーン期間(平成27年6月)
 6月の土曜日、日曜日
夏休みシーズン(平成27年7月~8月)
 7月の土曜日、日曜日、祝日
  ※4日(土曜日)、5日(日曜日)、11日(土曜日)、12日(日曜日)は公開しません。
 8月の土曜日、日曜日、祝日
  ※29日(土曜日)、30日(日曜日)は公開しません。
秋の観光シーズン(平成27年10月~11月)
 10月の土曜日、日曜日、祝日
  ※3日(土曜日)、4日(日曜日)は公開しません。
 11月の土曜日、日曜日、祝日
  ※28日(土曜日)、29日(日曜日)は公開しません。
冬季期間(平成28年2月)
 2月の土曜日、日曜日、祝日

公開時間 午前の部 11時00分~12時30分  午後の部 13時30分~15時00分

入館料金  一般410円 ※20名以上の団体は360円  
      高校生以下200円 ※20名以上の団体は150円
休  館  日 水曜日(祝日の場合は、その翌日)

来館者の方へのお願い
 建物内では、必ず係員の指示に従ってください。
 混雑状況により、入場を制限させていただくことがあります。
 明治期の建物のため、窮屈であったり急な箇所がありますので、十分にご注意ください。
 

智恵子の「紙絵」公開期間(予定)

奇跡と言われる高村智恵子の「紙絵」の実物を展示します。
 平成27年6月4日(木曜日)~6月30日(火曜日)
 平成27年10月8日(木曜日)~11月24日(火曜日)

イメージ 1

「場所」のもつ空気感というものは、大事なものです。数十年の時を経ていても、かつて光太郎や智恵子が居たその「場所」に身を置くことで感じられること、新たに見えてくるものもあります。

のちほどレポートしますが、つい先日は、光太郎終焉の場所、中野の中西家アトリエにお邪魔して参りました。中に入れていただいたのは初めてで、感慨ひとしおでした。

今度は智恵子の部屋で、思いを馳せてこようと思っています。皆さんもぜひどうぞ。

それから、隣接する智恵子記念館では、智恵子紙絵の実物の公開。こちらは例年、5月のGWと秋の菊人形期間に合わせて行っていますが、今年は「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のからみで、6月と10月だそうです。

複製や画像では感じられない、実物のもつ存在感、迫力といったものを味わってみて下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月2日

昭和48年(1973)の今日、文治堂書店から高村豊周遺稿歌集『清虚集』が刊行されました。

豊周は光太郎の実弟。鋳金の道に進み、いわゆる人間国宝に認無題定されました。

実兄・光太郎同様、文才にも恵まれ、特に短歌は独自の境地を開き、昭和39年(1964)には皇室の歌会始の召人を務めたり、生前には3冊の歌集を刊行したりもしました。

この『清虚集』は、1年前のこの日に亡くなった豊周の遺稿歌集です。解説は盟友とも言える間柄だった草野心平が書きました。