東北に3泊4日で出かけたり、延々とそのレポートを書いたりしている間に、新聞各紙で光太郎智恵子に関する報道が数件なされています。まとめてご紹介します。ネタの少ない時には5日間にわけて紹介する内容ですが、紹介しなければならないネタが多く、苦渋の選択です。

まずは智恵子の故郷・福島二本松の安達太良山がらみで、福島の地方紙2紙の1面コラム。開催中のふくしまディスティネーションキャンペーン、今月17日が安達太良山の山開きだった関係です。

あぶくま抄

『福島民報』 5月17日
 高村光太郎の詩集「智恵子抄」にある「あどけない話」は、二本松市、猪苗代町などにまたがる安達太良山の名を全国区に広げた。妻智恵子が愛した、東京にはない「ほんとの空」に近づける山として。
 3日に亡くなった詩人長田弘さんも故郷の自然に愛着を抱き続けた。東日本大震災後、本県出身の詩人を代表し、日本記者クラブで2回ほど講演した。高校時代まで親しんだ福島市の信夫山は、街のど真ん中にあり盆地を遠く見渡せる。講演で石川啄木の短歌<ふるさとの山に向ひて言ふことなし…>を引いた。「山は変わらない。山は古里の象徴だ。そういう風景によって生かされている」。景観を壊す復興に異議を唱えた。
 安達太良山はきょう、山開きを迎える。奥岳登山口から途中、ゴンドラを使えば約1時間半で山頂にたどり着く。登山初心者に優しい。地元グループが山道の倒木を片付け、朽ちかけた橋を修復した。受け入れ準備は整った。
 20日は智恵子の129回目の生誕日だ。安達太良山だけでなく、二本松市内の生家や「樹下の二人」の詩碑などを訪ねてみてはどうか。天空で安らかに過ごしているであろう、智恵子と光太郎が歓迎してくれる。

【編集日記】

『福島民友』  5月23日
 さわやかな日が続く。初夏の風が吹きすぎるだけで、日々の雑事で生まれた心のもやもやも、すっと消し飛んでしまう気がする▼1931(昭和6)年5月出版された作家梶井基次郎の代表作「檸檬(れもん)」は主人公の青年が、書店で本の上にレモンを置いて立ち去り、その爆発を夢想する。青年の屈託を吹き飛ばすようなレモンの色彩イメージが発表当時、反響を呼んだという▼「智恵子抄」で知られる詩人で彫刻家の高村光太郎も、妻智恵子の死の翌年、レモンをかじる妻の姿を思いおこして詩「レモン哀歌」を作った。人は心が沈んだとき、レモンのさわやかさが必要になるのかもしれない▼智恵子の生家がある二本松市では、道の駅「安達」で、この詩にちなんで、智恵子の誕生日である今月20日からレモンをテーマにしたキャンペーンが始まった。月末までレモンを食材にした食事やグッズが提供される▼さらに、6月6日からは生家で、智恵子の部屋など、通常は公開されていない場所が期間限定で公開されるという。苦難の多かった智恵子と光太郎だが、今は多くの人から愛されている。震災からの復旧、復興を目指す郷土も、さわやかな二人の力を借りて、屈託を吹き飛ばしたい。

智恵子の生家の特別公開に関しては、また後日、ご紹介します。


続いて『朝日新聞』さん。2件あり、1件は岩手版の記事。今月15日、高村祭の日から始まった花巻高村光太郎記念館の企画展に関してです。

岩手)高村光太郎記念館 企画展「山居七年」始まる

『朝日新聞』岩手版 5月22日
 花巻市の高村光太郎記念館で企画展「山居七年」が開かれている。光太郎が同市太田にある「高村山荘」と呼ばれる小屋で過ごした1945年からの7年間の足跡をパネルや記録映画で紹介。水彩画など約20点を展示している。
 同記念館が4月にリニューアルしたことと、光太郎が花巻に疎開してから今年で70年になるのを記念して開催した。水彩画は「牡丹(ぼたん)」。疎開直後に発症した肺炎が完治した記念に主治医に贈ったものという。このほか、地元の小学校の学芸会にサンタクロースに扮して遊戯に参加したエピソードなどを紹介している。
 今回の展示は9月28日まで。10月からは展示資料を入れ替えて続けるという。



さらに先週土曜の全国版夕刊。過日、当方がお話をうかがってきた埼玉東松山の田口弘氏にからむコラムです。東武東上線高坂駅がその舞台。

(各駅停話)高坂駅 つややか ブロンズ通り

 高坂駅は三角屋根に時計台が載ったヨーロッパ風のかわいらしい駅舎。西口を出てれんが敷きの歩道を進むと、延々とブロンズ像が並んでいるのに気づく。
高村光太郎やガンジーの像、胴体だけの男女の裸像――。約1キロにわたり、30体以上もある。いずれも日本を代表する彫刻家高田博厚(ひろあつ、1900~87年)の作品だ。
 高田は31年に渡仏。肖像彫刻の技術を磨き、ノーベル賞作家のロマン・ロランらとも親交を持った。モデルと会話することで、作品にその人の思想を表現するよう意識していたという。
 駅前の像は86年、東武鉄道が駅舎を今の姿に改築したのにあわせて、東松山市が街のシンボルにしようと整備した。高田は晩年を鎌倉のアトリエで過ごしていたが、東松山でも、当時の市教育長だった田口弘さん(93)の誘いで展覧会や講演会を開いていた。それが縁になり、「彫刻通り」の構想につながった。
 「高田の作品がこれだけ集まるのは全国でも珍しい。半日くらいかけて、彫刻の良さを感じてほしい」と田口さん。像は酸性雨で溶けないよう、年に1回お色直しをしている。約30年経つ今も、つややかで美しいままだ。(鈴木智之)

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ブロンズ通りに関しては、一昨年のこのブログでご紹介しました。


最後に、大阪の地方紙『大阪日日新聞』さんから。御堂筋の光太郎彫刻「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」――御堂筋では「みちのく」――に関してです。

智恵子が2人、御堂筋に立つ

『大阪日日新聞』 5月23日
今回の案内人 亀井澄夫 日本妖怪研究所所長
中央区高麗橋「高村光太郎作 みちのく」
「智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ」(高村光太郎著『智恵子抄(ちえこしょう)』より)
 彫刻家であり詩人の高村光太郎が、長沼智恵子に出会ったのは明治45年、智恵子27歳、光太郎29歳のときである。大正3年、2人は結婚。芸術家とその妻は、お互いを最良の理解者として生活を共にする。
 しかし、結婚生活は24年を経て、智恵子の死によって終わりを告げる。その後、智恵子への思いをつづった詩集『智恵子抄』で、彼女は新たな生をうけ、それぞれの人の心に智恵子像を刻むことになる。『智恵子抄』は芸術に関心がなくとも、異様な感動を呼ぶ愛と狂気の傑作である。光太郎は晩年、2体の裸婦が向き合う作品を十和田湖に残している。それと同じテーマの裸婦像が御堂筋の歩道上にある。久しぶりに御堂筋を歩いてみた。
 2体の裸婦は同じ顔、同じ姿で手を重ねようとしている。生の波動が手から手へ伝わるようである。一瞬の後、手がスイッチとなり、2人のエネルギーがお互いをかけめぐり、動きだす。この顔は、もちろん智恵子である。光太郎と出会った頃の写真とうり二つである。
 「智恵子は(中略)まだ餓死よりは火あぶりの方をのぞむ中世期の夢を持っています」
 智恵子は芸術家にとって、意欲をたかぶらせる魔女である。できた作品を最初に鑑賞し、的確な評を述べ、それを愛し、その心を慈しんだ智恵子。
 光太郎は智恵子との生活で智恵子を呼吸し、自身を内なる炎で燃やし、浄化した。そんな彼の作品を路上で見られる大阪人は幸せである。たまには足をとめて、智恵子とともに空を見上げてみてはいかがだろうか。もう人間であることをやめた智恵子。恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩道。智恵子飛ぶ。

終末部分、正しくは「遊歩道」ではなく「遊歩場」なのですが……。


というわけで、各紙で光太郎智恵子を取り上げて007 (2)下さり、ありがたいかぎりです。いつも同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、どこの新聞にも光太郎智恵子の名がまったく載らない、という事態にはなってほしくないものです。当方の活動がそのための一助と成れば幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月28日

平成12年(2000)の今日、新潟県立近代美術館で開催されていた企画展「生誕110年記念 広川松五郎 高村豊周展」が閉幕しました。

豊周は光太郎の実弟にして、鋳金の人間国宝。殆どの光太郎ブロンズ作品の鋳造を手がけました。広川は豊周の盟友にして染織工芸家。ともに近代工芸の改革者として、活躍しました。

右の画像は図録の表紙です。豊周の「挿花のための構成」という作品で、大正15年(1926)のものです。斬新ですね。