5月15日(金)に行われた花巻高村祭のため、前日から花巻入りし、花巻には2泊しました(もう1泊は仙台)。
リフォームはされているようですが、基本的に昔のままのようで、部材や調度品などは非常にレトロな感じでした。また、非常に天井が高いのが印象的でした。
窓を開けると、下には豊沢川の清流。
館内各所にも、レトロなアイテムが随所に見られます。
深さ約130㌢の自噴岩風呂「白猿の湯」や、渓流沿いの露天風呂など、堪能しました。
よく「枕が変わると寝られない」という方がいらっしゃいますが、当方はそんなことはなく、というか真逆で、「枕が変わると起きていられない」という感覚です。旅先では夕食を摂って一風呂浴びると、もう眠くて仕方がありません。8時から9時にはたいがい眠ってしまいます。その代わり、2時とか3時とか、真夜中に目が覚めます。そこでまた温泉に浸かるとまた眠くなり、朝までぐっすり。また5時、6時くらいに起きて、さらに一風呂。今回の3泊ともそうでした。
2泊目は大沢温泉山水閣さん。こちらも光太郎がよく泊まっており、当方も学生時代から、数え切れないほど泊まっています。ただ、大沢さんは宿が3つに別れており、学生時代は自炊部さん(基本的に湯治客用の木賃宿)、その後は築160年という別館の菊水館さんに泊まっていて、山水閣さんでの宿泊は初めてでした。山水閣さんは少し高級な温泉ホテルという感じです。3館は全て館内でつながっています。
左奥の白い建物が山水閣さん、右手の古い2棟が自炊部さん。
こちらが菊水館さん。茅葺きです。下は3館共通の露天風呂、「大沢の湯」です。
さて、山水閣さんでは、「牡丹の間」という部屋に泊めていただきました。こちらも光太郎ゆかりの部屋です。
山水閣さん自体が建て替えられた際、光太郎がよく利用した部屋を再現したそうで、部材や調度品は当時のものを転用しているそうです。
こちらの箪笥、飾りかと思っていたら、ちゃんと浴衣が入っている実用のものでした。
そして、「光太郎ゆかりの部屋」を前面に押し出しているため、室内には光太郎の書「大地麗」、水彩画「牡丹」の複製が。本物はともに記念館に展示されています。
床の間には渡辺えりさんのお父様、渡辺正治氏の書。渡辺氏も当方と同じく、高村祭の記念講演講師をなさった際にここに泊まられています。
さらに出てすぐの廊下には、智恵子の紙絵の複製も。
この部屋はスイートルームの扱いなので、非常に広く、3部屋もあります。
また、やはり窓を開ければ豊沢川の清らかな流れ。鉛温泉さんより下流に位置し、流れも多少穏やかで、この季節、耳を澄ませばカジカガエルの声が聞こえます。
さらに館内廊下には、光太郎や賢治ゆかりの品々が。光太郎自身の書「顕真実」、仏典の言葉です。さらに渡辺氏同様、高村祭の講師をなさった、鋳金家の故・斎藤明氏、光太郎の実弟・豊周の子息、故・高村規氏の書。
その他、昨日もご紹介した光太郎写真や、光太郎が訪れた頃の大沢温泉さんの写真などなど。
廃線となった花巻電鉄の駅が、温泉入り口にかつてあり、その写真です。
こちらでも温泉を堪能しました。それから鉛温泉さん、大沢温泉さんともに料理もすばらしく、おそらく太って帰りました(笑)。
花巻にお越しの際は、ぜひ両館にお泊まり下さい。鉛さんの31号室、大沢さんの牡丹の間、ともにスイートルーム的な部屋ですが、プチ贅沢ということで。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月21日
昭和56年(1981)の今日、佐藤隆房が歿しました。
佐藤は総合花巻病院の院長を長らく務め、宮澤家ともども、昭和20年(1945)、戦災で焼け出された光太郎を花巻に招くのに一役買いました。
さらに、戦後、太田村に移る前の光太郎を約1ヶ月、自宅離れ(光太郎が「潺湲楼-せんかんろう」と名付けました)に住まわせました。太田村移住後の光太郎は、花巻町に出てきた際には主にここに宿泊しています。
光太郎歿後は顕彰運動を進めるべく、財団法人高村記念会を立ち上げ、その先鞭をつけました。
『高村光太郎山居七年』をはじめ、貴重な光太郎回想も数々残しています。
また、宮澤賢治の主治医だったことでも知られ、賢治の詩「S博士に」のモデルが佐藤だと言われています。
現在の㈶花巻高村光太郎記念会会長、進氏は、佐藤の子息です。