3泊4日の東北行を終え、昨日遅くに自宅兼事務所に帰りました。数回に分けてレポートいたします。

まずは5月15日(金)に執り行われました、第58回高村祭について。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会会長

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上田東一花巻市長

翌日の新聞各紙を購入して帰りましたので、その記事を元にします。 

岩手)参加者ら詩を朗読、光太郎しのぶ 花巻で高村祭

『朝日新聞』 岩手版

詩人で彫刻家の高村光太郎が東京から花巻に疎開した日を記念して開かれている「高村祭」が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前広場であった。新緑の中、参加者全員で「雪白く積めり」を朗読し、光太郎をしのんだ。
 空襲で東京のアトリエを失った光太郎は1945年5月15日、夜行列車で東京を出発し、翌日、花巻に着いた。光太郎がその詩を高く評価した宮沢賢治の実家に疎開。10月に旧太田村山口に移り、7年間過ごした。高村祭は花巻高村光太郎記念会が主催、今回が58回目。疎開から今年でちょうど70年となり、記念会の佐藤進会長は「高村先生をしのびたい」と話した。
 地元の小中学生らが詩を朗読、合唱を披露した後、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が講演し、「戦争に協力した自分を自分で罰するため、ここでは彫刻を封印し、自省する日々を過ごした」などと話した。(石井力)

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記事に有るとおり、昭和20年(1945)の詩「雪白く積めり」の朗読を全員で行いました。自分の隣には上田市長がいらしたのですが、誰よりも大きな声で朗読なさっていました。すばらしい。

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地元小中高生、看護学校生のみなさんによる朗読や演奏。太田小学校の2年生児童は、統合で廃校となった旧山口小学校の校歌も披露し、同校卒業生の皆さんは非常に懐かしがっていました。

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高村光太郎の功績 後世へ

『読売新聞』 岩手版

 詩集「智恵子抄」などで知られ晩年を太田村(現花巻市)で過ごした彫刻家高村光太郎(1883~1956)の功績をしのぶ高村祭が15日、花巻市太田の高村山荘詩碑前で行われた。     
 1945年5月15日、高村は東京のアトリエを空襲で失い、親交のあった宮沢賢治の弟・清六を頼りに夜行列車に乗った。この旅立ちの日を記念して毎年、高村祭が開かれている。今年で70年を迎え、児童・生徒らが高村の手掛けた詩の朗読や合唱などを行った。
 高村山荘は、疎開した高村が7年間、腰を落ち着けて暮らしたゆかりの地。狭い小屋ながら地域住民と触れ合い、農耕と自炊の生活を送った。
 元中学校教諭で、高村光太郎を研究している小山弘明さん(50)は講演で、「高村はこの地で大きく視野を広げた。残念なのは、一時期の日記や手紙が全く見あたらないこと。高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」と話した。
 高村山荘に隣接する高村光太郎記念館では、高村が太田村山口で暮らした7年間を紹介する企画展も開かれている。問い合わせは、記念館(0198・28・3012)へ。
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「日記や手紙が」とありますが、正しくは「日記が」です。以前にも書きましたが、昭和24年(1949)と25年(1950)の日記大部分が行方不明です。同じく行方不明だった昭和20年(1945)の分は、花巻で見つかりました。そう考えると、24、5年のものも、もしや……と考えています。

企画展に関しては後日、詳述します。 

光太郎の思い 次代に 疎開70年、花巻で高村光太郎祭 住民ら500人がしのぶ 朗読や合唱のびやか

『岩手日報』

 花巻市で晩年を過ごした彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)を顕彰する第58回高村祭は15日、同市太田の高村山荘詩碑前で開かれた。児童生徒らが朗読や合唱を披露し、光太郎の花巻疎開から70年の節目に思いを重ねた。
 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)などが主催し、住民ら約500人が参加。佐藤会長は「今年は高村光太郎記念館がリニューアルオープンし感謝している。高村先生をしのび楽しい一日にしたい」とあいさつ。上田東一市長は「70年前のきょう、高村先生は東京を出発し花巻に向かった。新しい記念館も見ていただき、高村先生の功績と人生に思いをはせてほしい」と参加者に呼び掛けた。
 太田小児童が楽器演奏を披露し、西南中の生徒は光太郎が残した「心はいつもあたらしく」の言葉を歌詞にした「精神歌」を合唱した。花巻高等看護専門学校1年の大尻真海(まみ)さん(18)は花巻空襲で負傷者救護に尽力した看護師らをたたえる「非常の時」を朗読。「光太郎先生が岩手を愛し、深く地域と関わっていたことを高村祭であらためて感じた」と話した。同専門学校はコーラスも披露し、会場に優しい歌声を響かせた。
 光太郎の妻智恵子の出身地、福島県二本松市からメンバー約20人と訪れた「智恵子の里レモン会」の渡辺秀雄代表は「新緑の林の中で開かれる高村祭は規模も大きく、伸び伸びとしている。雰囲気がいい」と感心していた。
 光太郎は45年5月15日、戦災のため花巻に疎開し約7年間を過ごした。

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看護学校の大尻さんは、詩「非常の時」の朗読をなさいましたが、朗読だけでなく、その前に、この詩が作られた背景を説明して下さり、感心しました。

光太郎の偉業 しのぶ 高村祭 詩朗読や楽器演奏

『岩手日日』 はなまき

 花巻市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第58回高村祭(花巻高村光太郎記念会など主催)が15日、同市太田の高村山荘の詩碑前で行われた。多くの参加者が、かつて光太郎が暮らした自然環境に親しみながら、詩の朗読や合唱、有識者による特別講演を通じ、その偉業に思いを巡らせた。
 同記念会の佐藤進会長や上田東一市長をはじめとする関係者や地元の児童生徒ら約600人が参加。彫刻の代表作とされる「乙女の像」がある青森県十和田市や、光太郎の妻・智恵子を顕彰する福島県二本松市の智恵子の里レモン会からも関係者が来場した。
 光太郎の遺影を飾った詩碑に、太田小学校の戸來尚暉君(2年)と髙橋百花さん(同)が花を手向け、三彩流新茗会の新田社中が献茶。碑に刻まれた「雪白く積めり」の詩を一同で朗読した。
 同校2年生16人が詩の群読や楽器演奏、光太郎が指導したという旧山口小学校の校歌を披露。西南中学校の1年生54人も「心はいつもあたらしく 日々何かしら見いだそう」という光太郎の言葉を盛り込んだ同校の精神歌を合唱した。
 続いて詩作「道程」を花巻南高の久保田彩花さん(3年)、同じく「レモン哀歌」を池田菜美さん(2年)が朗読。静かに心へ染み入るような光太郎の詩の魅力を会場全体で味わった。
 花巻高等看護専門学校の大尻真海さん(1年)は、1945年の花巻空襲で、身をていして負傷者を救護した医師や看護師に光太郎が贈った詩「非常の時」を朗読した。同校1年生男女40人の混声合唱では、光太郎作詞の「最高にして最低の道」などを披露した。
 太田小学校の安藤大翔君(2年)は「上手に発表できた。自分が中学生になった時も、今日の中学生に負けないように頑張りたい」と笑顔。花巻高等看護専門学校の石澤直人君(1年)は「伝統ある高村祭に参加できてうれしい。高村先生のように強い意志を自分も持って看護師を目指す」と意欲を見せていた。
 高村祭は、戦火で東京のアトリエを失った光太郎が、70年前に花巻へ疎開してきた日に合わせて毎年開催。今回はリニューアルした高村光太郎記念館のオープン記念も兼ねている。
 同記念館では、新設の企画展示室を活用した初の企画展「山居七年」が同日から開幕。9月28日までの前期は希少な光太郎の水彩画など18点と詳細な年譜などを紹介し、10月9日から2016年2月22日の後期は展示を入れ替える。問い合わせは同記念館=0198(28)3012=へ。

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『岩手日報』さんと『岩手日日』さんは、二本松の智恵子の里レモン会さんにも触れています。渡辺代表、夕方のローカルニュースでもご出演。
 
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真摯に生きた光太郎の姿紹介 小山代表が特別講演

『岩手日日』 はなまき

 15日の第58回高村祭では、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎と花巻・山口」をテーマに特別講演。つまずきながらも真摯(しんし)に生きた光太郎の姿を多くのエピソード共に紹介した。
 小山代表は、花巻での光太郎について「戦争を賛美した自らに最も重い罰を科そうと彫刻を封印していた。だが、地元の人から敬愛され、幸せな日々を送ることができたのでは」などとした。
 高村光太郎記念館で同日開幕した企画展「山居7年」を監修。「光太郎が過ごした花巻ならではの展示を見てほしい」と呼び掛けている。

さらに当方も写真入りでご紹介下さいました。よい記念になります。

ところで記事にはなっていませんが、第二部もあり、そちらは地元の皆さん(モンデンモモさんも特別出演)の歌や踊りなどでした。地元の皆さんはこちらを楽しみにしています。自分で講演をやっておいてこういうのも何ですが、こういう催しは講演とか朗読とかの小難しいことだけをやっていても駄目ですね。高村祭の、半分は地域のお祭り的な要素が、長く続いている秘訣だと思います。泉下の光太郎も、存命中は地元の田植え踊りや神楽に非常に興味をひかれていました。そういう意味では、いいはなむけにもなっています。

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しかし、先述の『読売新聞』さんで、当方の講演の要旨として、「高村の功績を考え、しっかりと後世に伝える必要がある」というのが、肝です。そこで、小中高生、看護学校生などの若い皆さんが出演して下さり、さらに講演を聴いていただき、次の世代へとしっかりと光太郎の遺徳を伝えることを考えているのも、素晴らしい点だと思います。上記新聞各紙の見出しに「次代に」「後世へ」といった語を入れていただいたのは、そういう意味では非常にありがたいかぎりです。

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その頃まで当方が生きているとも思えませんが、42年後は第100回高村祭、その頃まで変わらずに続いていって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月18日

大正12年(1923)の今日、新潮社から詩話会編纂007の『日本詩集 1923版』が刊行されました。

光太郎詩「真夜中の洗濯」「米久の晩餐」が掲載されています。

詩話会は、詩人の大同団結を目指し、大正6年(1917)に結成された団体です。『日本詩集』は年刊誌として毎年刊行。さらにこれと別に『日本詩人』という機関誌もあり、ともに光太郎も何度か詩を載せています。

しかし、こうした団体の常で、主義主張の相違から、大正15年(1926)には会が崩壊してしまいました。