先だって、ご案内を戴きましたが、光太郎の実弟・豊周の令孫にして、現在の髙村家当主の髙村達氏の写真展が開催されています。 

髙村達氏 写真展「Botanical Garden~植物園」

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会 期 : 2015年5月9日(土)~5月21日(木) 10:30-18:30   ※最終日は16:00まで 
会 場 : ホテル椿山荘東京「アートギャラリー」ホテルロビー階
                    東京都文京区関口2-10-8 03-3943-1111
入場無料

達氏は、昨夏亡くなった父君・規氏の跡を継いで、同じ写真家としてご活躍中です。

ところで、現在、高村家では「たか」の字は「」(いわゆる「はしごだか」)を使われています。

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ちなみに「」の字を、旧字体だと思いこんでいる方が多いのですが、この字は旧字体ではなく、「俗字」という扱いです。この問題は、戦後になって改訂された旧字体、新字体の問題ではありません。戦前から通常の「」の字はちゃんと存在しました。

以前から気になっていたのですが、故・規氏のからんだ光雲や豊周に関する書籍はほとんど「」になっていました。下の画像は平成11年(1999)に刊行された光雲の彫刻写真集の内容見本です。

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どういうことかと思っていたのですが、先月末、花巻の高村光太郎記念館リニューアルオープンの際、記念式典にいらしていた達氏との雑談の中で、その話が出て、疑問が氷解しました。

髙村家では、昔からはしごだかの「髙」の字を慣習的に使用していたとのこと。光太郎も少年時代は「髙」の字を使っていました。下の画像は明治27年(1894)、数え12歳、高等小学校時代の習字です。

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しかし、それがいつのことか詳細が不明なのですが(おそらく明治期)、戸籍の届け出の際に、光雲の弟子の誰かが代わって手続きに行き、「髙」ではなく、通常の「高」の字で届け出てしまったとのこと。

したがって、高村家では戸籍上は「村」、しかし慣習として「村」を使い続けているということです。

ところが光太郎は、少年期は別として、長じてからは、戸籍通りにすべきだろうということで、「村」としていたそうです。自分は家督相続を放棄した分家、という意識もあったのかも知れません。

複雑ですね。

このブログでも、煩瑣になるのを避けるため、「村」で統一させていただきます。ただし、現在の髙村家に関わる箇所のみは「」の字を使います。

ところで達氏写真展、当方、明後日、花巻高村祭に向けて千葉の自宅兼事務所を出ますが、その際に立ち寄っていこうと思っております。みなさんもぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月12日

明治43年(1910)の今日、広島に住む画家の南薫造に宛て、葉書を書きました。

 あの葉書が届いた相ですね。
 チエルジイのあのエムバアクメントや リツチモンドのキングスホテルを思ひ出させて 人に身顫ひさせる 悪いわるい意地の悪い夏が来ましたね。日本に住んで居るといふ外は 僕と日本とは今の処没交渉です。Ah!

前年に欧米留学から帰朝、光雲を頂点とする古い日本彫刻界との闘いを余儀なくされていた時期のものです。

光太郎と南は、明治40年(1907)から翌年にかけ、ともに留学でロンドンに滞在、彼の地で親しく交わりました。「エムバアクメント」はテムズ川のヴィクトリア堤防、「リツチモンド」もロンドンの地名です。