昨日は、東京大森で、「歌物語コンサート「智恵子抄」」を聴いて参りました。

会場は大森駅にほど近い雑居ビルの2階にある「風に吹かれて」というお店。「フォーク居酒屋」と銘打っていますが、比較的広い店内に、ステージがしつらえてあるライブハウス兼酒場といった趣でした。

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唄うは潮見佳世乃さん。ジャズ系もやられているということで、ハスキーボイスが素敵な雰囲気を醸し出すボーカルでした。先月の第59回連翹忌にご参加いただいています。先週リニューアルオープンなった花巻の高村光太郎記念館にも早速行かれたとのこと。すばらしい。

伴奏はたつのすけさん。フォークギターとキーボードを入れ替えながら、息のあった伴奏。一曲はソロの演奏もありました。

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オリジナル曲、民話系の「歌物語」のあと、後半が約30分の「智恵子抄」でした。光太郎詩9篇にオリジナルの曲を付け、全体を「歌物語」として構成されていました。

まずは、「樹下の二人」。「あれが阿多多羅山、/あの光るのが阿武隈川。」のフレーズが有名ですね。大正12年(1923)、智恵子の故郷、油井村(現・二本松市)を訪れ、智恵子の生家(裕福な造り酒屋)周辺を案内してもらっている光太郎というシチュエーションの詩です。結婚披露から8年半、智恵子もまだ健康、それなりに幸福な毎日を送っていた時期の作品で、のびのびと明るいドゥア(長調)で、それが表されていました。

2曲目は「智恵子は東京に空がないといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」の「あどけない話」。昭和3年(1928)の詩ですが、智恵子の実家・長沼酒造は次第に家業が傾き、不動産登記簿によればこの詩が書かれた前日に家屋の一部が福島区裁判所の決定で、仮差し押さえの処分を受けています。翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、実家の家族は離散、智恵子は帰るべきふるさとを失います。実家の斜陽化に心を痛め、しかしどうしてやることもできず、子供のように涙を流す智恵子。さらにそれを知りつつどうしてやることもできない光太郎。そういう姿が半音進行を多用し、不安をあおるようなメロディーで表現されていました。

続いて、心を病んでしまった智恵子を、千葉の九十九里にいた母と妹夫婦のもとに預けていた昭和9年(1934)を回想して作られた「千鳥と遊ぶ智恵子」「風にのる智恵子」。二つの詩の詩句を行ったり来たりしながら、「人間商売さらりとやめて/もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子」「もう人間であることをやめた智恵子」が謳われます。激しい曲調と、「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」という千鳥の鳴き声が印象的でした。

ほとんどアタッカ(曲間を開けないこと)で、「値(あ)ひがたき智恵子」。

智恵子は見えないものを見、000
聞えないものを聞く。

智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことを為る。

智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。

智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。

詩と音楽が一体となって迫り、胸が締め付けられるような思いがしました。

そろそろ智恵子の臨終を謳う「レモン哀歌」かな、と思ったら、時間の流れを少し遡って「山麓の二人」でした。九十九里で智恵子が療養した前年の昭和8年(1933)、自分にもしもの事があった場合の智恵子の身分保障のため、それまで無視してきた入籍を果たし、悲しい新婚旅行に出かけた先の、裏磐梯での光景です。こちらはア・カペラ(無伴奏)での朗読。徐々に静謐な世界に入っていく暗示のように感じられました。

次が予想していた「レモン哀歌」でした。哀愁漂うメロディーに乗せ、天に昇っていく智恵子が謳われます。ここまでフォークギターの伴奏だったのが、曲の途中でキーボードに替わり、見事に変化をつけているなと思いました。

最後が智恵子歿後の昭和14年(1939)に作られた「亡き人に」。ここでモール(短調)からドゥア(長調)に戻り、まとめがつけられました。

雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばし002
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


「歌物語「智恵子抄」」はここまで。このように、途中途中でいろいろと変化をつけながら、単調になったり、バラバラの寄せ集めになったりせず、しっかり一本の流れとして全体の構成を考えてのステージだったことに非常に感心しました。当方はそれぞれの詩の背景を知っていて、なおかつ納得のいく構成だったので、いっそう楽しめました。光太郎智恵子の世界をあまりご存じでない方も、全体の流れで「智恵子抄」の世界にひたれたのではないでしょうか。実際、終演後の他のお客さんの反応も上々でした。

この9篇からなる構成が短いバージョンだそうで、もっと長いバージョンもあるそうで、ぜひ聴いたみたいものです。そうした機会にはお知らせいただくようお願いしておきましたので、期待しております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月7日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺で「仏供養」という法会に参列しました。

前年秋から太田村の山小屋(高村山荘)での独居生活を始めた光太郎、確認できている限り、初めての遠出です。太田村は非常に信心篤い人々が多く、たくさんの村人が集まり、さらに県下の各郡から僧侶が一人ずつ派遣されて、盛大な法会だったそうです。太平洋戦争での戦没兵士等の追善読経も行われました。

昌歓寺では、昭和25年(1950)の一回だけ、光雲・智恵子の法要もやってもらいましたし、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再び上京したあとに、観音像の制作を光太郎に依頼しています。ただし、それは叶いませんでしたが。