一昨日行って参りました長野のレポート、2回目です。
メインの目的地、碌山忌会場の安曇野市の碌山美術館さんに着きました。
昨年までは、有志での守衛の墓参が、午後に行われていましたが、今年は午前中だったため、見送りました。まずは守衛の彫刻作品がまとめて収めてある碌山館へ。こちらの彫刻群とは1年ぶりの対面です。
続いて第1展示棟に行き、光太郎の彫刻群を拝見。新しく「十和田湖畔の裸婦群像のための小型試作」(像高約56㌢)が増えていました。中型試作(同約112㌢・小型の約2倍)は以前からあり、これで中型と小型のそろい踏みとなりました。どちらも全国各地に存在するものですが、2種類が揃っているところはここだけではないかと思われます。
ちなみに原寸(同約220㌢・中型の約2倍)のものは十和田湖畔と、箱根彫刻の森美術館さんにしかありません(石膏原型は東京芸術大学さん)。
さらに杜江館で展示中の守衛の絵画、第2展示棟で開催中の企画展「荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-」を拝見しました。肉筆のものは、作者の体温が伝わってきます。守衛の肉筆をまとめてみるのは初めてで、興味深く拝見しました。企画展の方では、光太郎から守衛宛の葉書も展示されていました。こちらも現物を見るのは初めてでした。
企画展の会場には、この日、同館から刊行された書籍『荻原守衛書簡集』が置いてあり、パラパラめくっていると、そこにお世話になっている武井学芸員がいらして、「こちら、どうぞ」ということで、同書を一冊戴いてしまいました。定価4,000円もするものですので、有り難いやら恐縮するやらでした。
同書、それから碌山忌に関して、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんで報道されました。
荻原碌山、命日に理解深める 安曇野の美術館開放
安曇野市穂高の碌山(ろくざん)美術館は、同市出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)の命日の22日、第105回碌山忌を開いた。同館を無料開放し、学芸員が彫刻作品を解説。碌山が画家を目指して上京した19歳から晩年までの書簡約150通を収録した「荻原守衛書簡集」もこの日に合わせ発刊した。
学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。
書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。
碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。
同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。
学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。
書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。
碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。
同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。
報道には記載がありませんが、守衛がロダンに宛てた書簡も掲載されており、そこには光太郎の名も。明治40年11月、当時留学でロンドンに住んでいた光太郎が守衛に会いにパリに来て、さらに二人でムードンのロダン邸を訪れた際のことが書かれています。その際はロダンは不在で、内妻のローズ・ブーレにパリ市内のアトリエを訪ねるように言われたものの、光太郎がロンドンに帰る都合でそれが果たせなかったと書かれています。この書簡については全く存じませんで、驚きました。
同書には、先述の光太郎から守衛宛の葉書も掲載されています。
その後、杜江館2階で開催された碌山忌記念講演会「荻原守衛の書簡をめぐって」を拝聴しました。講師は信州大学名誉教授で同館顧問の美術史家・仁科惇氏。『荻原守衛書簡集』の編集委員長として、さまざまなご苦労があったというお話をされました。
講師の仁科氏(右)を紹介する五十嵐館長(左)です。
続いて碌山研究発表ということで、武井学芸員による「新井奥邃(おうすい)と荻原守衛」。
新井奥邃は思想家。守衛は留学に出る前、明治33年(1900)から翌年にかけ、明治女学校の敷地内に住んでいましたが、同じ時期に奥邃も明治女学校で教壇に立っており、そこで守衛は奥邃の思想に感化を得たらしいとのこと。
ちなみに光太郎も奥邃の思想に共感を示しています。守衛とも交流のあった画家の柳敬助に宛てた書簡(大正5年=1916)に奥邃の名が見えます。
余程以前に君から新井奥邃翁の「読者読」の一遍を恵まれた事がありました それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづゝ解つて来た様に思はれます 其は意味が解つたといふので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合はせる程一致して来たのを感ずる様になつたのです それて尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます 此事を君に感謝します 翁の言を集めた書が其後印行された事がありますか 若しあつたら其もいつか読みたいと思つてゐます かういふ書はくり返し読めばよむ程尽きぬ味が出て来ます
しかし、『高村光太郎全集』で、奥邃の名が出てくるのはここだけです。光太郎と奥邃については、今後の検討課題です。
講演会、研究発表が終わり、グズべりーハウスという棟で、毎年恒例の「碌山を偲ぶ会」。
昨年から、要項に光太郎詩「荻原守衛」が印刷され、冒頭に参加者全員でそれを朗読するという試みが始められました。
当方もスピーチさせていただき、来週の花巻高村光太郎記念館リニューアルオープンや、『十和田湖乙女の像のものがたり』について話して参りました。さらには来年が光太郎歿後60年、智恵子生誕130年という件も。(「企画展で取り上げて下さい」という意味です)スピーチというより、営業です(笑)。
その後は愛車を駆って一路、千葉の自宅兼事務所まで。強行軍でしたが、有意義な1日でした。
以上、長野レポートを終わります。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月24日
昭和5年(1930)の今日、東京向丘の大圓寺で、観音開眼大供養会が行われました。
像は光雲が顧問として監督に当たり、高弟の山本瑞雲が主任として作られた木彫仏です。さらにそれを原型として境内に露座の鋳造仏も開眼され、同じ像の木像と鋳像が同時に奉納されるという異例の事が行われました。
他にも大圓寺さんには光雲がらみの像が多く安置されており、いずれ行ってみようと思っています。