昨日は、光太郎の親友、碌山荻原守衛の105回目の命日、「碌山忌」ということで、信州安曇野の碌山美術館さんに行っておりました。2回に分けてレポートいたします。
一昨年から、車でお伺いしています。その方が、電車の時間を気にしなくて済みますし、現地で動きがとれます。さらに、同じ方角で光太郎と関連のある人物を扱った美術館、文学館等を訪れるようにしています。一昨年は画家・村山槐多の作品が収蔵されている上田市の信濃デッサン館さん、昨年は安曇野市の臼井吉見文学館さん(臼井は編集者)を訪れました。
今年は、というと、2ヶ所に寄り道しました。1ヶ所目は、山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡博物館さん。中央道の釈迦堂パーキングエリア(下り線)の裏手にあり、PAに車を駐めて、歩いていけます。
こちらに寄るのはまったく予定外でした。そういう施設があるというのは何となく知っていましたが、単純にトイレ休憩のため、同PAに寄ったところ、看板が出ていて、「ああ、歩いていけるんだ」と知り、行ってみました。当方、古代史にも興味がありますので。
釈迦堂遺跡は中央道建設に際して発見された遺跡で、特に縄文時代の地層から1,000点を超す土偶が出土し、中には重要文化財に指定されたものもあります。同館は高台にあり、甲府盆地がよく見渡せます。あちこちに桃の花も。
行ってみて、驚きました。同じ笛吹市にある青楓美術館さんとの共催企画で「津田青楓の描いた花たち」という企画展が開催されていたのです。全く存じませんでした。
津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
また、津田は智恵子とも知り合いで、以下の智恵子の残した言葉としてよく使われるものは、津田の回想『漱石と十弟子』に書かれています。
世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。
さて、釈迦堂遺跡博物館内へ。1階が企画展示でしたので、まずそちらを拝観。津田の描いた花の絵が約30点、展示されていました。館外の桃の花、館内には花の絵、心が和みました。
2階は常設展示で、発掘された土偶などの遺物。こちらも興味深く拝見しました。
時代が下って古墳時代の造型である埴輪に関して、光太郎は「埴輪の美と武者小路氏」という散文などに記述しています。ところが光太郎存命中にはまだ縄文時代についての研究がそれほど進んでおらず、土偶についての発言は確認できていません。もし光太郎が此等の土偶を見ていたら、どんな発言を残しただろうと思いました。
さて、再び中央道に戻って、八ヶ岳と南アルプスの間を抜け、長野方面へ。思ったより雲が多く、山容はきれいには見えませんでした。諏訪インターで一般道に下り、次の立ち寄り地、下諏訪町立今井邦子文学館を目指しました。今井は光太郎より7つ年下の歌人。大正4~5年(1915~1916)、光太郎彫刻のモデルを務めました。ただし、残念ながら彫刻は現存しません。写真撮影は、光太郎の実弟・豊周です。
場所は諏訪大社の下社秋宮にほど近い、旧中山道から一本入った狭い道沿いです。邦子の父の実家で、元は茶店だった建物だそうです。幕末の和宮降嫁、江戸東下の際に行われた、現在で言うところの国勢調査的な記録が残っており、それによると間口4間半、畳数25畳だとのこと。ここで邦子は少女時代を過ごしました。
入場は無料。2階が展示スペースになっており、原稿、書簡、作品掲載誌、遺品などが並んでいました。光太郎の彫刻の写真も。
邦子の夫の健彦は、大正13年(1924)、当時の衆議院千葉2区から出馬し、当選。戦後まで代議士を務めました。当時の千葉2区は、当方の住む香取市や銚子を含む区域で、居住はしていなかったようですが、夫妻の足跡が残っています。健彦は銚子の名誉市民ですし、当方の住む香取市の香取神宮には、邦子の歌碑があります。そんな縁もあって、興味深く拝見しました。
その後、せっかく近くまで行ったので、諏訪大社下社秋宮へ。
こういうところに来ると、清浄な気分になります。ところが、逆に邪悪な心で各地の文化財に油のような液体をまくという事件が発生していますが、何を考えてそういうことをやっているのか、さっぱり理解できません。先述の香取神宮も被害に遭っています。
桜もまだ残っていましたし、境内脇には展望台があって、諏訪湖が望めました。
門前のそば屋さんで昼食。風情のある建物でした。他にも古い家並みが残り、こういうところは当方、大好きです。
山菜そばと、天ぷらを単品で頼みました。右下はそばかりんとう。
さて、また愛車に乗り込み、いざ、メインの碌山美術館さんへ。以下、明日。
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月23日
大正9年(1920)の今日、福島油井村の智恵子の母・センに宛てて手紙を送りました。
銀座の園芸店からダリアの球根を送る手配をした旨、記述があります。このダリアは智恵子生家で美しく咲きほこっていたとのこと。